第一章 鎮魂の舞 1
■1-1 彷徨いの森
体が痺れて
――流されてきたんだ。
水の中で必死にもがいていたことを、ラルフは思い返している。いつしか記憶はどんどんとさかのぼり、テルテオの村の橋の袂までたどり着いた。
今年は雪解けの水が豊富で、水量が例年よりも多く、コドロー橋の下を流れる川の流れは、轟々と激しい音を立てていた。
足がもつれて、何度もつまずきそうになりながらも、ラルフは懸命に走った。背中に背負った長剣が、一歩ずつ進むたびに重さを増しているように、ずしりずしりと膝にひびく。
コドロー橋までの、ほんの数十メートルという距離が、永遠に届かないのではないかと思うほど遠く感じられた。
怖くて振り返ることができない。ラルフを追いかけてくる兵士の足音が、すぐ後ろまで迫って来ていたのは分かっていたから。
遠くから聞こえてくる悲鳴に耳を伏せながら、歯を食いしばって固く目を閉じ必死に走った。
――殺される。殺される……。
そう心の中で繰り返しながら……。
橋から身を躍らせた直後の衝撃は、まるで岩に全身を打ち付けたような激しい痛みだった。一瞬で激流の渦に飲み込まれ、息ができなくなってしまう。身を切るような水の冷たさに、あっという間に気が遠くなった。意識を手放す瞬間、脳裏に浮かんだジェイの顔はラルフが大好きな表情をしていた。それは、優しさと美しさと明るさで、きらきらと輝く微笑みに満ち溢れていた。
――ここはどこなのだろう。
体の感覚が耳から戻り始める。自分の体が横たわっているそう遠くないところで、水の流れる音がした。
――さらさら、さらさら、きらきら、きらきら……。
心地よい静かな音に耳を澄ますと、もしかしたら水の妖精の話し声が聞こえてくるかもしれない。ラルフはじっと耳を傾けた。
じんわりと意識が形をなしてきた。周囲には真っ暗な闇が広がっている。それが自分を優しくすっぽりと包み込んでいるような気がして、大きな安堵感に満たされた。
ふと傍らに、何か固いものが寄り添うように横たわっているのを感じた。
力の入らない重たい腕を何とか持ち上げて、指先をそれに這わせてみる。
長くて、中心に少しふくらみがあり、表面には柔らかな感触のなめし皮の帯が巻いてある。先端は、優美で繊細な彫刻を施したシルバーの台座に、磨きぬかれた大きくてまん丸の石が取り付けてあるのだ。大きな丸い宝石の名はブルーペクトライトといい、まるで澄み渡った青空に雲を浮かべたような模様がとても美しい。
つるりとした表面に指先を触れるだけで、そのどこまでも遠く遥か頭上の青空の色を、ラルフは脳裏に蘇らせることができた。それほど印象深い大きな宝石を冠したものは、ラルフの身の回りではあれしかない。
ノリスから受け取った剣の柄だ。
ラルフはその柄を握り締めてみる。指の関節が、ギシギシと音を立てるような痛みが走り、現実なのか夢なのかを体が分からせようとしているかのようだった。
まぶたがまた再び閉じようとしている。ああ、これは夢に違いないと抗う自分がいた。
次に目が覚めれば、自分はいつもの村にいる。婆様の作ったスープの煮える匂いに、腹がなるだろう。今日もジェイと一緒に、ミルの葉を摘みに行くんだ。
ラルフは意識が閉じ行くのを感じ、重たい眠りについた。
ゆっくりと夢と現実の境目が近づいてきた。少し体が軽い。ラルフは、自分の体を覆っていたものに手をかけ、頭を出そうと小さくもがいた。
「気が付いたのか」
少しかすれた腹に響く低い声、あまり抑揚もない、しかし明らかに女の声が頭上からおりてきた。
頭を覆っていたものがふいに取り除かれて、ラルフは「うっ」と息が詰まる。目に飛び込んできた光が瞳を刺し、その痛みに顔をしかめた。
「……あんた、…だれ?」
それは思わず自分が発した声なのかと疑ってしまうほど、かすれた音が喉からもれ出た。口の中がざらついて、舌も喉の奥にひっこんでいるようだ。
ラルフは目を細め、辺りをゆっくりと見回してみた。先ほどラルフの目を刺した光は、どうやら焚き火の炎だったようだ。それは赤々と周囲を照らし、辺りを囲む木々の奥は、真っ暗な夜闇が続いていた。ラルフが横たわっていた下は柔らかな砂で、ふわふわとした感触だった。
女はラルフの問いには答えない。かたわらで、小枝をぽきぽきと折りながら火にくべている女に目をやる。
目深にフードを被った横顔は、炎に照らされ陰影がくっきりと浮き立って見えた。長く艶やかな黒いまつげが印象的だった。まるで芸術家が大理石を削って形作ったようなメリハリのある造形だ。唯一、頬に切り傷の跡がうっすらとあるのは、芸術家のミスかと思ってしまうほどに。
ラルフの視線を感じてか、女もラルフの方へ顔を向けた。
「どうした?」
眠れないのか、と言葉を続けた女と目が合った。その刹那、炎に照らされたアメジストに輝く瞳がちらりと見えて、ラルフは自分の心臓が飛び跳ねた。
がばっと体を起こして、もう一度女の顔をのぞきこむ。何かの見間違いだったのかと思ったのだ。しかし、女の
女はすぐに視線をそらすと、さっと立ち上がった。
「寝ぼけてるのか?」
訝しんだ表情で一度視線をラルフに向けたが、すぐに身を翻し、夜の森の中へと入っていってしまった。
ラルフは再び砂の上に視線を落とし、ぼんやりと考えてみる。
――ジェイと同じ色の瞳だった。
今までラルフは、アメジストの瞳の色は巫女族だけの特別なものなのかと思っていた。自分の髪の色もそうだが、体の色の違いだけで種族を区別することはできないのかもしれないと森の方を見ながら思う。
それに、ジェイもリリールも巫女族の人はとても華奢で細く小柄で、透き通るような真っ白い肌をしているが、先ほど見た女の肌は褐色で、ローブの上からでも分かるほど肩幅が張り、長身で筋肉質だった。
まるで、小さい頃に聞いた物語に出てくる登場人物のようだ。大海を渡って別の大陸へと旅に出たという、南の国の砂漠に住んでいた流浪の民の物語のように。
ラルフは自分の手をじっと見つめた。柔らかく暖かかった。ぐっしょりと濡れていたはずの衣服もすっかり乾いている。体を包んで暖めるのに使われていた女のローブが、ラルフの肩から滑り落ちる。
地面の砂をつかんでみる。さらさらと指先から砂がこぼれ落ちるくすぐったい感触に、自分は生きていると実感した。
そう思ったとたん自分の心に、なぜ生きているのだろうと、猛烈な絶望感が沸き起こってきた。それはある意味、罪悪感に近い感情だ。
――あのまま、死んでもよかった。誰も悲しまないから。俺にはもう、そんな人はいなくなってしまった。なぜ自分だけが、生きているのだろう。
突然、涙が溢れて頬を伝い、手のひらにぱたりと落ちた。なぜ、今頃になって泣けてくるのだろうかと不思議な気持ちでそれを見る。しかし、あふれ出る涙は止め処なくラルフの両手にぽたぽたと落ちてきた。
ラルフは、自分の身に起こった突然の出来事を、呆然と、しかしどうしようもなく揺るがない現実を、受け入れることができずに戸惑っていた。
孤独と焦燥感がラルフの心を締め付ける。すがりつくものが欲しくて、自分が唯一この空間で知っているもの、傍らに静かに横たわっている長剣の丸い宝石を強く握り締めた。
森の奥でがさがさと木の葉を揺らす音が聞こえた。悟られたくない。泣き声なんか聞かれたくない。ラルフは体に力を入れて唇をかんだが、後から後から湧き上がる悲しみは、涙の本流となって流れ出し、喉から漏れる嗚咽は止められなかった。
森から戻ってきた女は、小脇に木の枝を抱えている。それを足もとに放り投げると、どかっと座り込みラルフを正面からまっすぐ見つめた。
しばらく視線を向けていた女は、身を固くして喉を鳴らすラルフに穏やかな口調で話しかけた。
「泣くのなら、我慢はしちゃいけない」
「……泣いてなんか…………ない!」
強情に唇を震わせ、乱暴に涙をぬぐう。ラルフはジェイと同じ色の瞳には、こんな情けない自分を見せたくないという思いで、溢れる涙に抗おうとした。それは女の口調が穏やかであるほど、強く心を締め付けた。
そのあまりのまっすぐな視線に耐え切れず、ラルフはそれから逃げるようにひざを抱え丸くなった。握られたこぶしがぎゅっと固く、ラルフの心を押さえ込もうとしている。