序章 夢から醒めない 8

「私が血にまみれたのは、この地を愛し守りたかったからだ!お前だってそうだっただろう?」
「……そんなもの、とっくの昔に忘れたよ」
 アスベリアの双眸に一瞬浮かんだ悲しみは、ノリスの刃をはじき返し身を翻した瞬間に消え失せた。

「村に火を放て!!」
 アスベリアの合図を、固唾を呑んで待っていた国王軍が動く。
 兵士たちが番えていた矢が、一斉に宙に放たれた。流星のように尾を引く火のついた矢は、次々と村の中へと消えていき、一瞬後には黒煙となって空へと立ち登る。
「やめろ、アスベリア!」
 ノリスの叫び声が響いた。
「村人は皆殺しだ!ノリス=ペルノーズを倒し名を上げろ!!」
 アスベリアの号令とともに、村にどっと兵士たちがなだれ込んできた。

 ――オレには使命がある。
 ノリスがアスベリアと剣を交えてまで時間稼ぎをし、ここから逃がしたかったものを奪いに行く。

 シモーヌが治療院の戸口に閂を下ろしながら、ラルフを振り返った。その目には、涙が浮かんでいる。
「ジェイを連れて、ここから逃げるんだよ。今はノリスが時間を稼いでいる。しかし、長くはもたんだろう」
 ――あの子は昔から狩りに出るのも嫌がるほど、命を傷つけることが嫌いな優しい子だったからね。
 ラルフは狼狽を隠せない瞳で、シモーヌを見つめながらつぶやいた。
「それじゃあ、婆様は……」
「お前は優しい子だよ。ダルクやノリスによく似て……とても優しい子だ」
 シモーヌは、両手にノリスの長剣を握り締め震えているラルフの手に、自分の両手を重ねた。
「優しさは強さに繋がるが、弱さにも繋がっている事を、忘れるんじゃないよ」
 ラルフは唇をかみ締めて黙ってうなずく。シモーヌは手を伸ばしてラルフの頭を抱き寄せると、その頭を優しく撫でた。
「いい子だね。そんな顔するんじゃないよ」
 ――もっとこうしてやりたかったが、しかたあるまいね。

 ラルフは、ノリスから受け取った長剣を背中に背負った。革のベルトを胸にまわし固定する。シモーヌもベルトの金具を閉めるのを手伝ってやった。世話を焼くのもこれが最後だと、心に刻むように。
 シモーヌが手を離すと、ラルフはジェイの手を握り締めた。

「……お婆様」
ジェイは泣きじゃくっている。シモーヌは裏口の戸を押し開き、リリールを押し出した。
「さあ、二人とも」
 村の入り口の方からどよめきが上がる。
 それを合図とばかりに、ラルフは駆け出した。今の自分は沢山の命の犠牲の元に生かされている。ここで死ぬわけにはいかない。
 ――振り返っちゃだめだ!

 村の入り口からは怒号が沸き起こり、家々からは火の手が上がる。
 ジェイの震える指先が、自分の手の内にあり、ラルフの背筋をぞくぞくとしたものが走り抜けた。
 その時だった。
村はずれのコドロー橋が目前に迫ってきたとき、背後で悲鳴が上がった。
「やめて!」
 ラルフがあわてて振り返る。
「さすがアスベリア様だ。ここで待ち構えろとのご命令に間違いはなかったというわけだ」
 リリールの腕をつかんでその体を引きずるようにしながら、兵士がにやにやと笑みを浮かべ近づいてくる。リリールは身をよじり、逃げようともがくが、男の手はびくともしない。
 道の両脇の林の中から、潜んでいた兵士たちが飛び出してきて、ラルフたちを取り囲んだ。
 ラルフはジェイを背中に回し、じりじりと後退りながら、ノリスの長剣を渾身の力を込めて抜いた。ラルフの身の丈に合わない長剣は、途中鞘に引っかかり、一度には抜けない。
 まごつくラルフを兵士たちは笑いながら見ている。
「坊主、お前にはちょっとその長さは無理なんじゃないか?」
「おい、なんのつもりだ、ガキが」
 ラルフはどうにか抜刀すると、剣を構えて兵士たちをにらみつけるが、長剣はとてつもなく重く、剣先がふるえ、持ち上げていられるのも一瞬だけだと思われた。
「だめよ、ラルフ!」
 リリールが叫ぶ。
 ――歯向かってはだめ。ここで命を落としてはいけないわ。

「いいから巫女姫をこっちに寄こしな、坊主」
「大丈夫さ。俺たちだって、ティリシャ持ちの巫女とお近づきになれりゃ、神様のご利益もあるってもんだ。こっちの女も大事に扱うさ」
 下卑た笑いが兵士たちの間に広がった。リリールの腕をつかんでいた男は、彼女の腰に腕を回して、顔をそらすリリールの頬に手を添える。

 ラルフはそのしぐさを見た瞬間、目を見開き、歯を食いしばって剣を横薙ぎに振り回した。
「うおっと!何しやがる坊主!」
 闇雲に振り回したラルフの剣先が、男の腕を切り裂いた。男があわてて身を引いた瞬間、リリールは男の手を振り解きジェイへと駆け寄った。
「もう我慢できねえぞ。ガキだと思って見逃してやろうと思っちゃいたが!覚悟しろ坊主!」
 男は真っ赤な顔で自分の剣を引き抜き、上段に構えた。取り囲んでいた他の兵士たちも、剣を抜き殺気立った目でラルフたちを取り囲む。

 男の手が動いた。
「やめて!!」
「お母さん!!」
ジェイの甲高い悲鳴が、ラルフの体を包みこんだかのように聞こえてきた。
 ラルフの顔に、生暖かな鮮血が飛び散る。それはまるで、色のついた柔らかい雪のように。
 ラルフは、自分にのしかかるリリールの横顔を呆然と見つめていた。リリールの口からあふれ出した血が滴り落ちる。
「さあ、早く逃げるのよ……」
 真っ白な胸を真っ赤な血で汚しながら、リリールはなおも二人に逃げろとつぶやいた。必死に身を起こすと、今度は兵士の足にしがみつく。そして消え入りそうな声で何度も何度も……。
 その姿にぎょっとした兵士が、第二撃をリリールに打ち込もうと剣を構えた。

 ――父さんは、俺に生きろと言った。ノリスの剣は村人を守る剣だ。婆様も、命を賭して俺を生かそうと逃がしてくれた。俺は……。

「俺は、ジェイを守る!」
 ラルフは立ち上がると、男たちの前に躍り出た。
「やめて、ラルフ!」
 血で咽りながら、リリールはか細い悲鳴をあげた。
 自分がその時、何を叫んでいたのかは思い出すことはできない。だが、何かわめいていたような気がする。
 はじめに切りつけたのはラルフだった。渾身の力で長剣を振り回し、兵士の剣を持つ腕を叩き落とした。
「ぎぃやぁぁぁ!」
 耳をつんざく叫び声。兵士が切り落とされた腕の先端を握り、のた打ち回る。
 その姿に他の兵士たちは色めきたった。
「このガキ!」
 男たちが構える剣の間を、ラルフの闇雲に振り回す刃が輝きを放って弧を描くと、次々と血しぶきが飛んだ。

「いや!」
 ラルフの背後でジェイの悲鳴が上がった。
 ハッと我に返り振り向くと、そこには馬上にジェイを抱え上げたアスベリアの姿があった。ジェイの暴れる腕をあっという間に押さえ込み、身動きを取れないように抱きすくめてしまう。
 アスベリアがふっと笑う。ラルフの周囲に、負傷してうずくまる自分の部下たちを見回した。
 剣の心得なんてまったくないと、見るからに分かる動きだったが、むちゃくちゃに振り回したわりに、これは損害が大きすぎる。ラルフが握る見覚えのある剣に目をやり、アスベリアはラルフと重なる面影を思った。
「ノリスの甥か。まったくやってくれたもんだ」
 アスベリアの苦笑は、やがて嬉しそうな笑みに変わった。
 ――私の故郷には、とてもかわいい甥がいてな!
 破顔しながらそうノリスが話すたびに、周囲は「お前が父親みたいだな」と半ば呆れ顔で何度も同じ話しを聞かされた。

 長剣を握り締めて、ラルフはアスベリアを睨みつけた。
「いい瞳をしている。しかし、ここまでだ。巫女姫はいただいていく。これから先、もしお前が生きていれば、いつか再会できる時が来よう」
 朝を迎えているのに、辺りは空一面に広がった煙の為に、とても薄暗く陰鬱な色をしていた。その中で、ラルフのアズライトブルーの瞳が、強い光を放ちアスベリアを見据えている。

 その時、鋭い怒気を含んだ声が森のほうから飛んできた。
「それはさせないと言っただろう、アスベリア」
アスベリアは笑顔を張り付かせたまま、声のするほうに目を向けた。
「ノリス。現役から退いて二年も経つというのに、国王軍など相手にならないか。さすがだな」
 血にまみれた剣を握り締め、肩から血を流しているノリスが、いつの間にかラルフの後ろに立っていた。ノリスはラルフが握っていた自分の剣を見、その剣先に血のりを見つけると眉根を寄せた。
「国王が何を考えているのか、お前だって分かっているはずだ。巫女姫を手に入れ、神の力を利用しこの世界を手に入れようとしている」
 アスベリアは、何がそんなに可笑しいのか、乾いた笑いを爆発させた。
「素晴らしいことじゃないか。この国が世界を統一。ザムラス陛下が世界唯一の皇帝になられる!」
「戯言だ!これ以上争いを増徴してどうする。そうでなくとも、隣国との争いで国民は疲弊しているというのに」

 周囲に迫ってきた炎の中に、アスベリアの笑みが不気味に浮かび上がった。
「それがどうした、そんな犠牲などこれから我々が得るものに比べれば、取るに足らないさ。
 戻ってこいよ、ノリス。あんただったら、すぐにでも将軍に昇りつめることもできるはずだ」
「もう、私は、……戻らない。戻るくらいなら、ここで死ぬことを選ぶ」
 ノリスは血だらけの自分の手のひらを見つめ、血を吐き出すように続けた。
「小さな子供までこの手にかけ、罪悪感に苛まれて夜も眠れない。
 夢に見ても、それは夢でも何でもなかった。罪の重さは私の命だけで償えるものではない。奪った分だけ重みを増す。息もできぬほどに!
 お前だって、そうだろう!」
 ノリスは自分の顔を覆う。アスベリアはそんなノリスの姿を、炎のちらつく瞳でしばらく見つめていた。
「……それでも、オレは命の重さより権力を欲したんだ……」
 ふと、アスベリアの表情に影が差したように見えたが、それも一瞬。すぐに馬を返すと、そのまま背を向けて走り出した。
「ラルフ!……いや!放して!!」
 馬上で揺れるアスベリアの背中が炎の中へ姿を消すまで、ジェイの泣き叫ぶ声が当たりに響き渡った。

「ジェイ!」
 ラルフがその後ろ姿を追おうとしたが、それをノリスが抱きとめて制した。
「ラルフ!お前は生き残らなくちゃいけない。
 今のお前では、アスベリアに勝つことはできない。しかし、強くなればいつかはその時がやってくる。それまで待つんだ」
 ラルフは手を握り締め、唇を噛んでうなだれた。
 ノリスは小さな声で、しかしはっきりとラルフに語りかける。
「私のこの手は、この血まみれの手のひらのように罪にまみれている。いや、この手だけじゃない。全身に浴びた血が、私の罪の重さを示している。
 今のお前の手はまだ美しい。それもいつかは穢れてしまうかもしれない。
 しかしな、お前は人の為にけがれても、自分の為に血にまみれるんじゃないぞ」
 いいな、とノリスはラルフの頭を撫でた。優しいしぐさでラルフの手から長剣を受け取ると、ノリスは自分の上着のすそで剣先の血のりをぬぐい、ラルフの背中の鞘にそれを収めた。
 ラルフの瞳に涙が溢れてきた。

「いたぞ!ノリス=ペルノーズだ!!」
 炎の向こうから、兵士たちが駆けてくるのが見えた。
「聞けラルフ。私があいつらをひきつける。その間に、あの橋から川へ飛び込め」
 ノリスは剣を構え、もうラルフに背を向けていた。
「生きろよ、いいな。兄貴や婆様や、村の人の分まで生きろ。
 強くなれ!ジェイを奪い返しにいってこい!」
 ノリスはその言葉をラルフに投げかけると、猛然と駆け出した。

 ノリスの言葉は、涙に震えていたようにも聞こえた。
 ラルフの耳には、その時のノリスの言葉が深く刻まれ、その後の困難をずっと支え続けることになった。

序章 夢から醒めない END
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