序章 夢から醒めない 7

 その日の朝は、(もや)が辺りを包み込み、ひんやりと静まり返った空気が漂っていた。誰もがその中で安らかに寝息をたてている。朝日はまだ森の奥に潜み、人々の耳元で「起きて」とささやく機会をうかがっていた。
 これから起こる惨劇の足音など、その時はまだ村人の耳には届いていなかった。

 靄が徐々に薄れていき朝日が家々の壁を照らし出した頃、冷たい静寂を切り裂いて、突然男の声が村中に響き渡った。
「家に火を放て!」
 村人は何事が起きたのかと眠い目をこすり、寝台から這い出て窓から外の光景を目にし、一斉に凍りついた。
 先端に火のついた矢を弓に番え、こちらに向かい構えている兵士たちの姿が、視界に飛びこんできたのだ。
 恐怖に泣き叫ぶ子供たちを、母親はその胸にかき抱き、震えをこらえながら天を仰いだ。
 静まり返った村の入り口から、また男の声が聞こえてくる。
「私は、ノベリア国王ザムラス陛下の命により、この地に赴いた、国王軍参謀少将アスベリア=ベルンである!」
 栗毛の馬に跨る、国王軍の漆黒の鎧を着た男が進み出てきた。短いアッシュブラウンの髪を無造作にかきあげながら、けだるそうに馬の上で揺れている男。瞳だけがキャメルブラウンの強い光を放っている。まるで猛禽類を思わせる輝きだ。
 村の男たちが、殺気立った目でアスベリアをにらみつけながら、家々から出てくる。

「アスベリアか……、また厄介なやつをよこしたものだ」と、ノリスが戸口でつぶやいた。
 まだノリスがノベリアの国王軍にいた頃、よく一緒に組んで戦場を駆け巡った男だ。ノリスは、参謀としてのアスベリアの戦場を読む才能を認めていた。軍の中でも、頭の切れる奴という評価が高く、予想通り着実に出世をして、今や参謀少将にまでなっている。
 ノリスからしたら、ノベリア軍がここを嗅ぎつけるのが異常に早いと思ったが、あの男が先頭に立っているのを見たら合点がいった。してやられたとノリスは唇をかむ。

 ダルクは黙って剣をノリスに突き出した。ノリスはまるで逃げるように目をそらし、奥歯をかみ締める。
「もう私は、剣を握る資格はないんだ」
 ダルクはノリスの手に無理やり剣の柄を押し付けた。
「お前が握る資格がないと思うのは、あの剣のことだろう。これは、村人の命を救う剣だ。私とお前でできるだけ村人を逃がす」
 ノリスはダルクから受け取った剣をぎゅっとつかむと、床下の倉庫にかがみこみ、布に包まれた長い包みを取り出した。
「ラルフ、これをお前に」
 ノリスが解いた包みには一振りの長剣が納まっていた。
「この剣はお前が使うにふさわしい。ジェイをつれて逃げろ。今すぐ裏口から婆様の治療院へ行け」
 ラルフはノリスが差し出した剣にこわごわ手をのばした。ずしりと重たい長い剣の感触が両手に降ってくる。ラルフは何も言えず、ただ唇をかみ締めていた。
「早くしろ!」
 ダルクはそんな黙り込んでいるラルフの腕をつかむと、裏口から外へと乱暴に放り出した。
「いいか、ラルフ、生きろよ!」
「父さん!」
 振り返ると同時に、裏口の戸が閉められた。

 村の入り口からまたも男の声が聞こえてくる。
「この地に匿いしディルーベス一族の、神聖なる巫女姫を国王陛下の元へ御連れする。抵抗せず速やかに差し出せ。さもなくば、この村を焼き尽くす!」
 父の姿を振り切るように治療院へと駆け出したラルフの背中に、朗々とした父の声が追いかけてくる。
「アスベリア=ベルンと申すもの。私はこの村の長ダルク=ペルノーズ。このような無礼な出迎え、ノベリア国王ザムラス陛下の命とはとても思えませぬ!
 巫女姫様とその母上が旅の途中、急病のため、この地に立ち寄られ静養されていただけ。それを心から心配し、熱心に看病していた村人に、矢を向けるとは何事か!」
 ラルフは治療院のドアをすばやく開け中に飛び込んだ。
「父さんが二人を連れて逃げろって」
 ラルフの姿を見るなりジェイが駆け寄ってくる。
 リリールは悲しげに首を振った。蒼白な顔が痛々しい。
「私たちがここに来てしまったために、この村の人たちが危険にさらされているのです。私たちがおとなしく出て行けば、この村は助かります」
「それはどうかね」
 とシモーヌは悲しげにつぶやいた。
「あやつらは最初から、この村を焼き討ちにするためにきたと思うが」
「そんな!」
 ラルフの首に回されていたジェイの腕が、びくりと跳ね力がこもる。
「逃げよう……、後は父さんとノリスに任せるんだ」
 ラルフはノリスの長剣を握り締め、精一杯気持ちを奮い立たせた。しかしそれでも、声が震えるのを抑えることはできなかったが。
 ――後ろを振り返っちゃいけないんだ。

 外では、村人と国王軍のにらみ合いが続いていた。村人は腕を組み、背中に剣をつるしている。
「まったく、頑固な連中だ」
 と、アスベリアは馬上でつぶやいた。どう見ても、村人に勝ち目はないというのに。
 どうやら村人達は、巫女姫を差し出す気はまったくないらしい。アスベリアがため息をついたその時、長身の見知った男が、村人達の生垣を掻き分けアスベリアに向かい歩み出てきた。
 アスベリアの後ろに控える国王軍がざわつく。それをアスベリアは片手を挙げて制した。
「ふん、ようやくお出ましか。ノリス=ペルノーズ」
 アスベリアの語り掛けに、ノリスがうなずく。国王軍の兵士たちのささやきがどよめきに変わりみるみる広がっていく。

 ――あれが戦場の鬼神、ノリス=ペルノーズか!

 テルテオの民の特徴であるオニキスブラックの髪に、朝日が当たって跳ね返る。軍にいた時よりも日に焼けて、柔和な面立ちになったノリスを見て、アスベリアは、ノリスのここでの二年間を想像することができた。
「ノリス=ペルノーズが農夫とはね」
 ノリスは手にした剣を隠そうともせず、アスベリアに歩み寄ってくる。村人に向かって矢を番え威嚇しているというのに、それでも歩みの止まらないノリスに国王軍が色めきたった。
「アスベリア様!」
 それでもアスベリアは黙っていろと指示し、自ら馬を降りる。
 ノリスが抜刀し、鞘を捨てた。

「ノリスか、久しぶりだな。あんたと並んで戦場を駆け巡った頃が懐かしいよ。どうだ、陛下の元に戻る気はないか」
 アスベリアはにこやかに語りかけた。旧知の友との再会というには少々わざとらしい口調だ。戻ってこいと誘っている気など毛頭ないのは誰でもわかる。
「そんな戯言には乗らない。私に地獄へ帰れというのか。お前も私も、この血にまみれた手は一生拭い去ることはできないんだぞ。お前はまだ、あの地獄に帰りたいのか!」
 いつもは温厚なノリスの隠された苦しみが、その言葉からにじみ出ていた。戦場から離れてもなお、罪の意識と悪夢という幻影に苦しんでいるノリスの姿がそこにあった。
「今さら何を言う。ノリス=ペルノーズが地獄を作り出していたんじゃないか」
 アスベリアも剣をすらりと抜き構えた。
「私に剣で勝てるとでも思うのか、アスベリア」
 ノリスの顔が歪む。
「さあね、しかし、オレの剣技はあんたに教え込まれたものだ」
 試してみろよと、アスベリアの剣先がノリスを誘う。

 じりじりと、二人の距離は接近していく。剣の構えは二人とも同じ。体の脇に引き寄せ、剣先を天へと向けている。
 いつしか国王軍も村人も誰一人、口を開く者はいなくなった。誰もが、二人の成り行きを固唾を飲んで見守る。
 静まりかえった朝の、肺を絞めつける空気が、空気の冷たさゆえか、はたまたこの場の張り詰めた緊張感ゆえかは、説明するまでもない。
「こらえる様になったな、アスベリア」
 ノリスは瞬きもせず、アスベリアのキャメルブラウンの瞳を凝視している。
「さあ、それはどうかな」
 最初に動いたのはアスベリアだった。一歩前に踏み込み間合いを詰めると、身を沈めて剣を振り上げた。うなりをあげるほどのスピードで、剣先がノリスに迫る。
 周囲を取り囲んでいた誰もが、体に力が入り両手を握り締めて唸った。どよめきが巨大な空気の塊となって、二人に重くのしかかってきた。

「ああ!」
 と声を上げたのは本人たちではなく、国王軍と村人たちの間から、感嘆の声ともいえるようなため息が漏れた。
 アスベリアが振り上げた剣は、そこにいるはずのノリスを捕らえることはなく、空を切る。その代わり、一瞬で現れたノリスの刃がアスベリアの剣を捕らえ、押し戻した。
 ノリスはその屈強な長身からは想像もつかない、俊敏で優雅かつ流れるような動きを見せた。アスベリアが身を沈めたときには、ノリスの体は最後にアスベリアの剣が到達するであろう場所へ移動し、彼の斬撃を待ち構えたのだ。
 手足の長さを生かした、舞を舞っているような滑らかな動きに周囲は釘付けになる。

 ――これが鬼神。戦いの神とまで言われた男の動きなのか。

 アスベリアに勝機はない。誰もが思ったその時、アスベリアがノリスと剣を交わらせたまま、ふっと笑顔を見せた。
「昔のあんたなら、オレの命はすでになかった。
 時間稼ぎをしても、村人は助からないぞ。いずれ追っ手がかかる。それとも……、家族の前であんたの本性を見せるのがそんなに怖いのか」
 久しぶりに間近に見るアズライトブルーの瞳が、悲しそうに揺れた。
 この二年間、剣を握っていないのだろう。それでもこの男の骨まで染みた剣技に衰えはなかった。お互いに剣を構えて向き合ったときから、アスベリアには分かっていた。ノリスがアスベリアを殺すつもりなどないことが。
「しかし、それでは村人を救うことはできないぞ!オレを殺せ。鬼神に戻り、地獄に身を沈めろ」

 ――あんたは血にまみれてこそ、ノリス=ペルノーズなんだ。オレもあんたも、戦いの中でしか、返り血をすすってしか生きられない罪人なんだよ。それを捨てて、ここで死ぬつもりか。