序章 夢から醒めない 6

 春が訪れ、テルテオの村は畑仕事に精を出す村人たちの姿をよく見るようになった。
 次の長い冬を越す為の準備が、もう始まっているのだ。
 ラルフも、父親の畑に種を蒔き、水路から水を引き入れ、土に水を張る。その傍らで、外に出られるようになったジェイが、柔らかな黄緑色の草に腰を下ろし、楽しそうに作業を眺めていた。
「終わったよ、ジェイ。今日は魚釣りに行こう」
 時には、村の子供たちと一緒に、遊びに出かける。ジェイは生まれて初めて、同じ年頃の子供たちと遊んだようだ。子供たちもジェイの容姿に最初は戸惑っていたが、彼女が話す神様のお話、百年も生きた長老の話し、海の向こうの遠く離れた国のこと、星占い、そんなすべてに夢中になった。
 ラルフはジェイの笑顔を見るだけで幸せな気分になり、この笑顔を守ると誓った丘の上の約束を思い出す。ラルフのラピスラズリのピアスは、その時ジェイにもらったものだ。意志の強さをあらわす石。ジェイとおそろいのピアス。

 ラルフのとっておきの場所。それは、テルテオの村の中で唯一、夕日が見える丘。眼下にはテルテオの村が見渡すことができる場所だ。
 テルテオは、周囲を森に囲まれているため、村の中では夕日はきれいに見ることはできない。
 ラルフはエフルの実を集めにジェイと一緒に森に入り、夕日を見ようとここまで山道を登ってきたのだ。
「きれいね」
 空は視界の半分が夜の世界に変化し始め、星がその中できらきらと瞬いている。西の空は、まだ昼間の名残を惜しむかのごとく、太陽が赤々と雲を染め上げていた。

「ラルフ、ありがとう。お婆様から聞いたわ。ラルフの額の傷、私を連れて森を抜けるときにできたものなのね」
 ラルフの額の傷は今はかさぶたがはり、周囲の皮膚が引きつっている。
「いや、これは……、そんな大したものじゃ……」
 ラルフは照れくさそうに額の傷を撫でた。
 ジェイは自分の耳からピアスをひとつ外すと、ラルフに手渡した。それは――星のきらめく天空の破片――ラピスラズリだ。細いシルバーの繊細な装飾を施された強力な霊石。
「これは、私が生まれたときに、長老様からいただいたものなの。この石には特別な力があるのよ。これをラルフにもらってほしくて」
 ジェイはラルフの手にそれを握らせた。
「この石はね、自分の大切な思いを貫き通す力を与えてくれるの」
 ラルフは石をぎゅっと握り締め目を閉じる。

 ――君の笑顔をずっと守り続けたい。

「何か、お願い事した?」
 ジェイの瞳が間近できらきらと輝いた。空を見上げると、東の空はすでに、ラピスラズリのような群青色だ。
「……ジェイを、ずっと守りたいって……お願いした」
 テルテオの男の誇りは、弱いものを命を賭して守ることだと、小さい頃から教え込まれている。父ダルクやノリスの後姿を見て育ったラルフには、自然と体に染み付いている教えだった。
 ジェイはぱっとうつむき、小さな声でつぶやく。
「私も、……私もラルフを守る。厄災から」
「ジェイ?」
「約束よ、絶対私と離れたりしないで」
 顔を上げた少女の目は潤んでいた。
「大丈夫、約束するよ。ずっと傍にいる」
 ジェイはラルフの額に残る傷にそっと唇を寄せた。風にそよぐジェイの髪の香りは、その時、春のすがすがしい青い草の香りがした。

 春にまいた種が芽吹き、その背丈を伸ばして太陽を取り込もうと葉を茂らせ始めた頃、ジェイの母リリールは、すっかり体力も回復し村になじんでいた。
 ここテルテオには興味本位で近寄るものもなく、みな親切だった。
 ディルーベスの村を襲った悲劇は、リリールによってダルクに語られ、ラルフの耳にも入ってきた。

 隣国コドリスは、五百年に一度の神の降臨祭に生まれたディルーベスの子供を奪うためにやってきたという。
 降臨祭に生まれた巫女姫は、その身のうちに神を宿し、選ばれしものを天界へと導く力を秘めるもの。神の力に匹敵する力を持ち、人々を幸福へと誘う。
 その巫女姫こそが、ジェフティであったのだ。
 隣国の追っ手を振り払い、ここまで逃げてきたそうだ。一年もの間、どうやって……とダルクがリリールに尋ねたが、彼女はうつむいて言葉を濁した。
「最初は信徒の村に隠れていたのですが、追っ手が迫るとそこから抜け出して。この風貌ですから、目立つところには出られません……」
 ダルクはリリールの言葉をさえぎった。言えないような辛い思いをしたのだろうと察したのだ。
 村に火を放たれ、断末魔の悲鳴を聞きながらも、振り返らず必死に逃げてきた。ジェフティだけは、誰にも渡すわけにはいかないと。
「私たちを匿っていては、この村がいつなんどき襲われるか分かりません」
 リリールはディルーベスの村を襲った悲劇を思い返していた。

「そろそろ二人を逃がす算段をつけなくてはいかんな」
 ダルクは腕を組んで、窓辺から外で走り回って遊ぶラルフとジェイの姿を見つめた。
「ラルフは寂しがるだろうが、それは仕方あるまい」
 それに、とノリスが口を開いた。
「コドリスに渡すまいと、ノベリアも躍起になって探しているだろう。ジェイが生きているのは分かっているだろうからな」
「この時期ならば、アロフを目指すのが手っ取り早いか」
 ダルクがふむと唸る。
「ああ、二人を追っているコドリスも、この時期はまだここから北のベチカ山脈の積雪が厚くて、それを超えるのは容易なことじゃないだろうし、テルテオに入ってくることはできないだろうな。その隙にと、追ってくるならばノベリアか……」
「それが一番厄介だな。やはり早いこと逃がす段取りをつけたほうがいい。
 アロフならば、私の知り合いがいる。そちらを頼るといい。この村の南に広がる森の中を行き、アロフまで抜ける道が一番安全だろう」
 しかし、とダルクは口を閉じる。
 村の南に広がる森は、通称『彷徨い森』と村人が言うほど、鬱蒼(うっそう)と生い茂る下草が大人の背丈にも達し、陰鬱(いんうつ)な森が広がり獣道すら見当たらない。地元の人間でも、気を抜くと迷子になってしまうというほどの場所だ。

 それならばとノリスが口を開いた。
「私が二人を国境付近の安全なところへ連れて行こう。私なら旅慣れているし、地の利もある。二人だけで彷徨いの森を抜けることはまず困難だからなあ」
「それでは、あなた方に危害が及ぶのではないですか。私たちを逃がす手助けをしたなどと国王の耳に入りでもしたら……」
 リリールが青ざめた表情で首を振るが、ダルクは指先でぽりぽりと頭を掻きながら、言い訳がましく苦笑を交え言った。
「テルテオの民は、昔からお人よしばかりでね。困っている人を見ると助けない訳にはいかないらしいのだよ。あなた方が始めてということではないのだ」
 そうだよなと、ラルクはノリスに視線をやる。
 テルテオの民は思う。自分たちの信念を曲げてまで、他人を犠牲にしてまでも我々が生きる道がどこにあろうかと。
「ありがとうございます。……あなた方の未来に光があらんことを」
 リリールはうつむいてつぶやいた。

 しかし、ここにいる誰もが、このなんの変哲もない日常の営みが、そう遠くない未来に陰り消え行くことを予想できないでいた。迫りくる闇に気が付かないほど、ラルフとジェイの幸せそうな笑顔は光り輝き、明日は必ずやってくるのだと疑うことも知らずにいた。