序章 夢から醒めない 5
ノリスの話によると、以前からコドリスでは、ノベリアの繁栄はディルーベスの力によるものだと考えるものが多いという。折りしもコドリスの農村に広がったディルーベス信仰も手伝い、我が国にも巫女姫をとの、気運が高まっていた。
ディルーベスの村はテルテオと同じく、コドリスとの国境に使い場所にあり、両国の小競り合いの中、戦火に巻き込まれてしまったのだ。
「巫女はノベリアの為に存在しているわけじゃない。この世界の万人の為に平和を祈り続ける存在のはずだ。それを政治の道具になど」
ノリスが苦々しいものを口に含んだような表情で吐き捨てるように言うと、手にしていた木の椀をテーブルの上に叩きつけるように置いた。
「一年もの間、逃げ回っていたのか……、可哀想に……」
親子二人で、なれない旅を続け逃げ回っていたということはラルフでもわかる。少女の大きさの合わない旅用の靴を、無理やり履いていたところを見ただけでも安易に想像がついた。
今は、この村でゆっくりと休んでほしい。できれば、目覚めた少女と話しをしてみたい。そう思うだけで、ラルフは自分の頬が火照るのを感じた。
次の日、ラルフは女の子の目が覚めたという知らせに、取るものもとりあえず治療院へと走った。そのあわてぶりは、まるでどこかの家が火事にでもなったのかと、村人が驚くほどだった。
「女の子の目が覚めたって、ほんとっ!……や、やあ……お、おはよう」
勢いよくドアを開けると、シモーヌがあきれた顔で「こらラルフ、静かにおし!」とラルフをたしなめたが、当の本人はそんな言葉も一瞬で耳に入らなくなっていた。
少女は寝台の上に起き上がり、窓を背にして座っている。両手で木の椀を包み込むようにして持ち、まっすぐラルフを見ていた。
窓から差し込む光が、少女の輝く髪に反射し、まるで春の小川の水面のようにきらきらしている。
ラルフは、最初の勢いもどこへやら、入り口に立ち尽くして、少女に掛ける言葉も見つからずにいた。
「昨日はありがとう、ラルフ。私はジェフティ、ジェイて呼んでね」
少女がふわっと笑った。ラルフはその笑顔を呆然と見つめている。
――笑った!……ラルフって……俺の名前を呼んでくれた!
出会ってから初めて耳にする少女の声。自分の名前が美しい旋律となって形になったかのような錯覚。ラルフはその余韻にぼうっとなってしまった。
「こらラルフ。そんなところに立っていられちゃ、部屋が冷えちまうじゃないか」
シモーヌはやれやれと首を振りながら、手にしていた木勺でラルフを小突いた。
シモーヌの手渡してくれたスープの椀を手に、ラルフは恐る恐るジェイの側へと近づく。そのしぐさを見て、ジェイはふふっと笑った。
「お、お母さんの、具合は、どう……」
やっとの思いで口から出た言葉は、上ずってしどろもどろだ。ラルフはさらに顔が赤くなった。
「お婆様のおかげで、もう大丈夫ですって。ねえ、ここに座って」
ジェイが自分の横に手を置くのを、ラルフは喉に何かが詰まったような表情で見つめていたが、黙ってうなずくと少し距離を置いて座り、手にしたスープの椀を凝視する。
ジェイがラルフのそんな横顔をじっと見ている。ラルフはそんな視線を頬に感じると、さらに顔を上げることができなくなってしまった。
――どうしちゃったんだよ、俺……。
同じ年頃の女の子はテルテオの村にだって何人もいる。その子たちと話すときは、こんなに緊張することはない。
――勇気を出せ。勇気!勇気!
「あ、ああの、あのさ……!」
勇気を振り絞って顔を上げたまではいいが、「おいしい木の実でも一緒に取りに行かないか?」というつもりが、ジェイの大きい瞳に捕らわれてしまい、最後はつぶやきに変わった。間近に見る宝石のような輝きに吸い寄せられ、まるで言葉も出ない。
ジェイの瞳は、水晶のように透き通っている。紫色のアメジストだ。白目の部分にも、そのアメジスト色の泉が染み出しているように見えた。神秘的で高貴な色。自分とはまるで違う女の子。ラルフは不意に、昨日ジェイを抱き上げたときの肩の細さを思い出して耳まで赤くなった。
「!!うあっち!」
持っていた椀からスープがこぼれ出し、手にかかる。ぼうっと見とれているうちに、手の中の椀が傾いたのだ。
――恥ずかしい……。
隣の部屋からラルフのあわてぶりを見ていたシモーヌが、堪え切れず笑い出した。
――もう、穴があったら入りたいよ……。
一方ジェイは、スープのかかったラルフの手を、傍らにあった布で拭いてやる。真っ白で細くてキズ痕一つないきれいな手だ。自分の日焼けした手とは違う、女の子の柔らかい手。
「!」
――うわ!さ、触られてる!
「ラルフ?」
「は、はい!」
思わず姿勢が良くなる。
「今度、外に出られるようになったら、ラルフのとっておきの場所に連れて行ってね」
ジェイはラルフの手を握り締めたまま、にっこり笑った。ラルフは心臓が跳ね上がり、ただジェイの笑顔がこのままずっと曇らなければいい、そう心から思うのだった。
治療院から出てきたラルフが、籠をもって山へ向かって行くのを、畑の畦でダルクは見ていた。ラルフの足取りがやけに軽い。
「なんだ?ラルフのやつ。こんな時期に木の実採りか?」
隣にいたノリスが、呆れた顔のダルクを見て噴き出した。
「春だね。ラルフはジェイに一目ぼれしたんだろう。今は何か喜ぶことをしてあげたくって仕方がないんじゃないか?」
ノリスは、手にしていた鍬を地に下ろして、満面の笑みを浮かべ青く澄み渡った空を見上げてからかい口調で続ける。
「兄さんだって、そうだったじゃないか」
ダルクはふと動きを止めて顔をしかめる。
「そう、だったかなぁ」
「兄さんは、今でもエリア義姉さんに惚れてるからなあ」
「今さら、からかうなよ」
ダルクは「お前こそどうなんだよ」とノリスの胸を叩きながら、山を登っていく息子の後姿を見つめていた。