序章 夢から醒めない 4

「ノリス!」
 ラルフが坂道の途中から呼びかけると、ノリスはのんびりとしたしぐさで「おう、ラルフ。なんだ、もう晩飯の時間か」と橋げたの下から出てきた。しかしラルフの緊張を帯びた表情とその様相に何かが起きたのだと察したのか、ノリスは柔和な顔を曇らせる。
「違うよ、父さんが呼んでるんだ。ヘロデヤの森の中に女の人が倒れてて、ノリスに手伝って欲しいって。もう一人の女の子は、今、俺が婆様のところに連れて行ったんだ」
 ノリスは一瞬険しい表情でヘロデヤの黒い森を見上げたが、すぐに笑顔をラルフに向けゆっくりと頷く。
「わかった。ラルフは、この道具を持って帰ってくれ。婆様のところで待ってろよ」
 ノリスは手にしていた木槌とロープを手早くまとめると、森のどの辺りかをラルフに聞き、大またで森のほうへと走り始めるとあっという間に姿が見えなくなった。

 ノリスは、ラルフの父ダルクの歳の離れた実弟で、元はノベリアの英雄とまで謳われていた。国王直属の騎士団長を務め、二年前にこの村に戻ってくるまでは、戦場の鬼神と恐れられるほどの人物だったのだ。
 三年前、ノベリアの北の隣国コドリスがシンパに侵略を開始したとき、シンパの親戚国ノベリアもその戦争に加わった。その際には最前線に立ち、コドリス軍と戦ったのだという。
 ノベリア国王軍のノリス=ペルノーズという名は、コドリスや他の国々でも、軍人ならば知らないものはいないというほど勇名をとどろかせていた。長身で屈強な体に、テルテオの民の特徴であるオニキスブラックの髪に似合う、漆黒の鎧がなんとも恐ろしく映え、敵軍が彼のその姿を見ただけで逃げ出したという逸話も残っている。
 さらに、ノリスがいつも握っていた白銀の美しい姿の長剣。その装飾された美しい姿とは裏腹に、血を求める魔性の剣と噂され、ガウリアン鋼で打たれたその刃は暗闇でも青白く発光し、戦場では稲妻のように白く閃光を放っていたと、まるで伝説のごとくその雄姿は語られていた。

 しかしテルテオの村人たちは、この平和な土地に血の匂いを持ち込んだと、英雄として帰郷したノリスを敬遠しているようだった。ノリスもそんな村人たちの気持ちを察してか、自分からあまり近寄ろうとはせず、畑を耕し、体の不自由になった老人の手伝いをしたり、村人の生活を陰でそっと支えて毎日を過ごしていた。
 背が高く、肩幅が広くて力持ち。挙句笑うと子供のように陽気で面倒見が良いため、いつもノリスの周りには子供たちの姿があり笑い声や歓声が絶えなかった。
 ラルフもこの叔父が大好きで、よく戦場での話をせがんだものだった。しかしその度に、ノリスは「血生臭い話しはしたくないし、お前にも聞かせたくないんだ。争いごとなんてお前が憧れるような格好のいいことじゃないんだぞ」と、よく苦笑しては言葉を濁して黙ってしまうのだ。

 ラルフもこの歳になれば、プリスキラ大陸で今起こっている国と国との争いごとや、国政についても少なからず理解できるようになっていた。
 ノリスがノベリア国王軍を退役して故郷に戻ってきたころ、ノベリアはシンパを巡るコドリスとの戦いに敗戦したという噂を聞いた。
 どうしても手に入れたかったシンパを手に入れるため、隣国のコドリス国王バルナバは、懐刀である末娘のセオールを、戦いの最前線へと送り、その采配でシンパを手中におさめたのだ。それと同時に、セオールは次代の王座を狙う兄たちをも超える力量を世に知らしめたこととなり、コドリス国内では、どの兄弟が一番先にノベリアへ戦争を仕掛け勝利を得るかと、王座を巡っての争いも持ち上がっている。
 つまり、二大国はいまや一触即発の緊張感に満ちていたのである。

 コドリスは高い山脈で南のノベリアとの国境を分かつ地形だが、大陸の北に位置し、冷気がたまりやすく、ガウリアン鉱以外に目立った資源のあまりない国土を抱えていた。一方シンパは、豊富な鉱山資源を産出する山を持ち、さらには豊かな実りある湾を有する、小国ながら裕福で魅力的な土地を保有していたのである。
 一方ノベリアは、シンパと親戚関係を築くことで、自国に乏しかった海の恵みと、貴重な鉱山資源の恩恵を受けていた。しかし、今回のコドリスの侵略によりそれらの収入を失い、交易が滞るようになったため、海の遥か向こう、ルステラン大陸全土を統治するイザフス帝との外交関係も悪化していた。
 このプリスキラ大陸は、ノベリアとコドリスのどちらが大陸全土を統治するかで競い合い、あちらこちらで紛争がおきている。平和な山間の農村であるテルテオに住む村人でも、そういった状勢や、村の男たちが戦争へといつ借り出されるかといった不安が、常に付きまとっていたのだ。


 ラルフはシモーヌの治療院へ戻ると、暖炉に新しく薪をくべ湯を沸かし始めた。
 少女はラルフがノリスの所に行っている間に、暖かい布団へと移されていた。体が温まる薬草を煎じた湯に浸した布を首に巻いて、穏やかな表情で眠っていた。頬に赤みが差し、唇もピンク色に色づいている。寝顔を見つめ、ラルフは胸をなでおろした。
「どこも怪我はないみたい?」
 遠巻きに見ながらつぶやくラルフに、シモーヌは笑いをこらえながら言う。
「大丈夫だよ、ラルフ。お前が大切にここまで運んできたんだからね。それよりも、自分の額をなんとかおしよ。切れて血が出ているじゃないか。こっちにおいで、見てやるから」
 ラルフはシモーヌの言葉を聞き、自分の額に触れた。森の中で小枝に打たれたところが切れていたらしく、血が乾いてこびりついている。
 ラルフは眠る少女の横に座り、シモーヌに膏を塗って治療してもらいながら、横目で少女の寝顔を見た。
「婆様、この子の額って……」
 少女の前髪の間から、額に描かれている模様が見えた。風のように渦を巻くその中心に、大切に抱かれている宝石のような形をした青紫の印。
「ディルーベスの巫女の印さ、ティリシャだね」
 シモーヌはこともなげにさらりと言う。しかし、ラルフは伝説にしか登場しないような、自分とは別世界にいると思っていた人に出会えたことに驚いていた。それこそ、物語の中だけに存在していると思っていた姿が、すぐ横で息をしていることに、ラルフはとても尊いものを感じとった。

 ――この子が、巫女……。

「これが、ティリシャ。神様の付き人……」

 小さい頃、眠る前に子守唄のように聞かされていた、ディルーベスの伝説。全知全能の神に仕える巫女一族ディルーベスは、神の言葉を聞き地上の人間たちを安息の地へと導く尊き神の使い。
 ディルーベスの一族の巫女として生まれるとすぐ、額に巫女の印、その子の運命の星を表す模様『ティリシャ』を彫られ、巫女としての教育が始まるのだとラルフは聞かされていた。
 神に許された巫女だけが、神聖な力を持つといわれる宝石アメジストのような紫色に輝く神秘的な瞳と、まるで月光のように光りを放つ銀髪を持ち、その力と高貴さは一国の王ですら、その存在の前では膝を折り頭を垂れ祈りをささげるという。
「あれって、本当の話だったんだね」
「そうさ、ノベリアの王都の側に集落があったが……」
 シモーヌの語尾が急ににごる。

 その時、治療院の扉が大きな音を立てて開き、ダルクとノリスが飛び込むように入ってきた。
 戸口からとたんに雨が室内に吹き込んでくる。外は相当激しく雨が降っているようだ。二人の吐く息が白い冷気のように漂い、冷えて青白くなった大きな手が強張っているのを見ただけで、外の気温が低いことがわかる。
「ダルク、ノリス、遅かったじゃないか。こっちに運んでおくれ。早く暖めないと」
 ダルクたちのマントから、ぼたぼたと雫が滴り落ち、足元にみるみる水溜りができていく。急いで森を抜けてきた為か、二人とも肩で息をしていた。ノリスが女性を抱え、用意していた寝台に横たわせるのを見ながら、ダルクは暖炉へ身を寄せ、マントを脱いで濡れた体を乾かし始めた。
「ラルフ、女の子のほうはどうなんだ」
 部屋の奥の寝台で、静かに横たわっている少女の方へとダルクは視線を移し、声を潜めてラルフにたずねた。
「婆様の話だと、体を暖めて休めばじきに目を覚ますって」
「そうか……、それはよかったな」
「あの女の人はどうなの」
 ノリスがぐっしょりと濡れたマントを脱がせるのを目で追う。女性は蒼白な顔でぐったりとしている。あまり状況がいいとは言えなさそうだ。
「間に合ってよかった。思いのほか雨が強く降り出したのには参ったが……。後は、婆様に頼むしかないだろう」

 女性から離れ暖炉の側に戻ってきたノリスも、冷たい雨に体温を奪われたのだろう、少し青白い顔をしていた。
 ダルクとノリスは、ラルフが二人の野菜スープを暖めている間、暖炉の前で濡れた頭の雫を拭きながら、ぼそぼそと小声で話をしていた。
「ディルーベスの巫女か。なぜこんな遠く離れた地に。それにあの村はもう…」
 ダルクがちらりと女性のほうを見る。
「ああ、一年前に戦渦に巻き込まれて壊滅したと聞いた。生き残りがいたとはな、むごい話だよ」
 ノリスはラルフから木の椀に注がれた野菜スープを受け取ると、ゆっくりとほくほくで汁の浸み込んだ芋を口にした。