序章 夢から醒めない 3

「大丈夫か?」
 小声でつぶやくように話しかけ、そっと頬に触れた。微かに息がある。

 ――冷たい……。

 少女がまとっていた白いマントは、こんな寒い時に着るようなものではなかった。どこから旅をしてきたのだろうかと、ラルフは眉根を寄せた。
 よく見ると、少女の着ている衣服もこの地方の衣装とは違い、さらさらとした薄手のしなやかな布でできている。

「戦争孤児なのか……な?もしかして、シンパから逃げてきたのかも……」

 この少女がノベリアの民なのかどうかも、ラルフには見当が付かなかった。三年前に起きたシンパを巡る戦争のことが頭をよぎる。未だにその頃の戦争が尾を引いていて、ノベリアとコドリスの国境沿いでは衝突が絶えないと聞いていたからだ。
 このプリスキラ大陸は、ここ三十年にわたり国同士の侵略戦争が絶え間なく続いていた。
 ラルフたち親子が住むテルテオ村が属するノベリア国のさらに南には、小国ツロ・デナル・サルファイ・アロフが西から順番に並んでいる。各国が南国四国同盟を結んで、ノベリア・コドリス二大国からの侵略に備えていた。
 近年では、ノベリアの現王ザムラスの正妃クレテの父が治めていた、北西唯一の小国シンパが、コドリスの侵略を受け、ノベリアの援護もむなしく陥落した。
 この辺りには、そういった戦争に巻き込まれ、住む場所を失った人たちが時折現れるが、この冬の終わりの時期に姿を見せることは極めて珍しい。

 ラルフは自分のマントを脱ぐと、少女の体を包んで抱き起こした。少女が腕の中で微かに動いたのを感じて、ラルフはほっと安堵の息を漏らした。少なからず少女は生きている。


「……おか……あさんが……」
「え?」
 ラルフは少女の口元に耳を近づけた。か細い消え入りそうな声がラルフの耳に届く。
「……おかあさんが……、川岸に……」
 ラルフははっとして顔を上げると、少女をそっと下ろして、川岸へと続く斜面に近づき覗き込んだ。
 ラルフが駆け寄ったシナイ川は、この時期、山の雪解け水が流れ出し、水位が増してくるのだ。山肌から染み出した蒼く透き通った水が、ラルフの足元の斜面を削るように、空気を含み青白い濁流となって轟々と音を立て流れていた。
 ラルフは傾いて伸びている木の幹に手をかけ、斜面を少し下りさらに周囲を見渡して目を凝らし探した。

「あそこか……」
 ラルフのいるところから下流に向かって少し下ったところ、川がカーブして土砂が堆積している川岸に人影がある。倒木の陰に身をよせ、ぐったりと横たわる女性を確認することができた。その女性のすぐ側を、青白い水が渦を巻いて轟音をとどろかせ、恐ろしい速さで流れている。このまま水位が上がれば、あっという間に流されてしまうだろう。


「どうだ、ラルフ」と、その時頭上からダルクの声が降ってきた。
 どうやらダルクは、ラルフが川岸のほうへと移動したのが気になって、獣道からここまで踏み込んできたようだ。ラルフは斜面を登りながら、ダルクに小声で女性の位置を告げる。ダルクも増水し始めている川の水位に目をやり小さく舌打ちした。
「村に戻ったら、ノリスに助けに来るよう伝えてくれ。どうやら霙雨になりそうだ」
 ダルクが顔をしかめて、どんよりと曇ってきた空を心配そうに見上げた。いつの間にか頭上には、鈍い銀色を帯びた鉛色の重たい雲が垂れ込めてきていた。先ほどから細々と寂しげに降っていた雨の匂いが、いつの間にか雪の気配を滲ませるものへと変わっていた。
 ラルフはダルクが斜面を降りていくのを見ながら、横たわる少女の傍らに膝を付いた。手にしていたナタを腰の鞘へ戻し、そっと少女の顔をのぞきこみ安堵の息を吐く。暖かいマントに包まれたためか、少し頬に赤みがさしてきたように見えたのだ。
 フードを引っ張りあげて、少女の頭をすっぽりと覆い、膝の下と肩に腕をまわし抱き上げると、少女は少し身じろぎして小さな声で何かつぶやいた。



 ラルフはダルクが斜面を降りていくのを見ながら、自分のマントに身をくるんで横たわる少女の傍らに膝を付いた。手にしていたナタを腰の鞘へ戻し、そっと少女の顔をのぞきこみ安堵の息を吐く。暖かいマントに包まれたためか、頬に少し赤みがさしてきたように見えたのだ。
 フードを引っ張りあげて、少女の頭をすっぽりと覆い、膝の下と肩に腕をまわし抱き上げると、少女は少し身じろぎして小さな声で何かつぶやいた。

「大丈夫。お母さんは、今父さんが探しに行った。後から来るよ。俺たちは先に村に行って待ってよう」
 少女は微かにうなずくと、ラルフの胸に顔をうずめるように身を丸めた。
 ラルフが腕に少し力を込めただけで、少女はふわりと持ち上がった。腕に伝わる小さく細い肩に、自分とはまったく違う生き物にはじめて触れたような気がしてどきどきする。ラルフは生まれて初めて沸き起こった胸の高鳴りに、戸惑いと言い知れぬ高揚感に満たされていた。
 村へと続く獣道へと出るまでに、ラルフは少し迂回をしなくてはなからなかった。いくら軽い少女とはいえ、両手に抱えていては大きな倒木を乗り越えることは困難だったからだ。
 マントを脱いでいるラルフの体が、急激に冷えていくのがわかる。さらに両手が使えないため、下草や頭上の枝を払うことができず、それらが鞭のようにしなり、容赦なくラルフの額や頬を叩いた。そのたびにラルフは少女を覗き込み、少女に怪我はなかったか確かめる。
「もう少しだから……」
 獣道を下りヘロデヤの森を出て、テルテオの集落の小さな屋根が見えてきた頃、とうとう空がこらえることができなくなってきたのか、ポツリポツリと雨に混じって白く重たいものが混じり始めた。
「急がないといけないな」
 ラルフは、白い煙がするすると立ち上る煙突の付いた家を目指し、小走りに山道を下りはじめた。


「婆様!この子を見てやって」
 ラルフがたどり着いた家は、ダルクの母、村で唯一の薬師シモーヌが住む治療院だった。入り口に植えられた、薬草としても使える、オレンジ色の小さな実をつけるイサカルの木が、その象徴である。
 勢いよく開いたドアの音に驚いたシモーヌが、煎じ薬をかき混ぜる木勺を手に持ったまま、奥の作業場から出てきた。
「どうした、ラルフ。何があったね?」
 治療院の中には、詰まった鼻がすっと通りそうな香りが充満している。ラルフは一番近くにあった寝台に、抱えていた少女をそっと下ろした。
「森の中に倒れていたんだ」
 ラルフが心配げに目深にかぶっていたフードを脱がせると、さらさらと月光の輝きの長い髪がこぼれ出て、寝台の上に広がった。
 シモーヌがさっと歩み寄り、マントをめくって少女の頬や首筋に手を当て、眉を寄せるのが見えた。
「大丈夫なの?」
 ラルフはシモーヌの曇った表情を見て不安になり、黙っていられなくて口を挟んだ。

「安心おしよ。体を温めてやれば、じきに起きられるだろ。それよりお前も早くあっちで温まりな。なんだい、ぐっしょり濡れてるじゃないか」
 シモーヌが暖炉のほうを指差し促したが、ラルフはもうひとつやることがあると身を起こした。ここで付いていたい気持ちはあるが、少女の母親を助けるほうが先だ。

「まだもう一人、女の人が森で倒れているんだ。今、父さんが助けに行ってるけど、ノリスにも手伝ってもらわないと……。ノリス、今どこにいるか知ってる?」
 ラルフは診療所の入り口にかかっていたシモーヌのマントを手早く肩にかけると、外へと続く扉に手をかけた。
「そうかい、ノリスならコドロー橋の修繕に行ってるよ」
 シモーヌの言葉が終わらないうちに、ラルフはフードを目深に被りながら勢いよく外へと飛び出した。そんなラルフの背中に、シモーヌの「気をつけて行くんだよ」という声が追いかけてきた。

 外は霙混じりの雨が強さを増していて、道のあちらこちらに水溜りを作り始めていた。道の両脇に広がる森が、黒々とした雲に覆われ、まるで身もだえしているかのように風で枝をうねうねと揺らしている。
 ラルフはそんな森の中を通るぬかるんだ道を抜け、村はずれのコドロー橋まで、一目散に走っていった。コドロー橋は、毎年雨の多くなる季節になると、その下を流れるシナイ川が増水するたびに壊れて流されてしまう橋だ。今年はその季節の前に頑丈に補強しようと、昨日の晩、ダルクとノリスが話し合っていたのだ。
 ぬかるんだ坂道を滑りながらも駆けおりると、ノリスが橋げたの下を覗き込んでいる姿が見えた。