序章 夢から醒めない 2

 その日は白い糸を引くような冷たい雨が降っていて、なぜだか寂しい雰囲気に満ちていた。

 周囲を覆いつくす木の葉に、軽やかに当たってはじける雨粒の音や、蒼く湿った香り。動物たちが身を寄せ合って気配を押し殺している、張り詰め引き締まった空気。そのすべてが、息苦しいほどに少年ラルフの体を包み込んでいた。

 ここは、テルテオ村の北に広がるヘロデヤの森。しんと冷えた静謐(せいひつ)な冷気が、春を迎えようとする里の民に、まだ冬の名残を惜しんでいると伝えていた。
 ラルフの前を歩く父親の背中が、いつもより広く見え、そこから暖かい空気がにじみ出ているように感じられる。ラルフは、その頬を撫でる暖かな空気に、寂しさがそっとぬぐわれたような気がした。
 しかし、そんな安らぎとは別に、冷たい雨は体温をどんどんと奪っていき、ラルフは寒さに震え白い息を吐き出した。

「まだ、寒さは続きそうだね、父さん」
「……そうでもないさ、春になればすぐに暑いというようになる」
 空を見上げて思わずため息を吐き出したラルフ。言葉は一瞬白く形を成したが、すぐに空に解け消えた。ダルクは振り返ると、苦笑をたたえた穏やかな瞳で見つめた。

 ラルフとその父親ダルクは、プリスキラ大陸の最東端に位置する、テルテオ村に住んでいた。
 テルテオ村は、大陸をほぼ南北に二分する大国ノベリアとコドリスのその境目にあり、ノベリアの王都カリシアから、最も遠く離れたところに位置していた。もうひとつの大国、北のコドリスとの国境近く、原生に近い広大な森と、切り立つような稜線に年中真っ白な雪を抱くベチカ山脈の懐に抱かれていた。
 テルテオの民は、畑を耕し、肥沃な土壌を育むヘロデヤの森に分け入り、狩りを行い生計を立てていた。村人すべてがひとつの家族かのように彼らは身を寄せ合い、互いを思いやることで自らの身を守り生きてきたのだった。
 ダルクはテルテオの村長であり、村一番の狩人としても人望厚い男だ。ラルフを産んでまもなく妻エリアが死に、それ以来、男手ひとつでラルフを育てている。

 二人は森の中を慎重に歩いていく。
 寒さが厳しかった冬が過ぎ、村ではもう春の気配が感じられたが、ベチカ山脈から今も染み出す冷気が、ヘロデヤの森にまだ雪の白い形となり、その痕跡を留まらせようとしているようだった。
 ラルフは、足もとの凍りついたぬかるみに足をとられずるずるとすべる。そんな息子を横目で見ながらも、ダルクはけして手を差し伸べることはない。
 それよりも、先ほどより前方から流れてくる、森には似つかわしくない甘い香りに、ダルクはなにやら胸騒ぎのようなものを感じていた。
 ラルフもその気配を感じ取ったのか、身をかがめ森の奥を凝視している。
 ダルクは立ち止まり、自分の後方でじっと神経を研ぎ澄ましているラルフに、「何か、感じたか」と小声で話しかけた。
 デシャットフォルクの毛皮がふわっと風で揺れる。それはこの土地に生息する、毛足の長いダブルコートで体を覆った灰色のイタチで、その毛皮はテルテオの貴重な収入源の一つであった。その毛皮をあしらったフードを目深にかぶり、ラルフはその奥できらきらと輝くアズライトブルーの双眸をすっと細めた。


「あそこに何かいる……」
 森の奥、土地が隆起し岩が現れているところに、雪が吹き溜まっているところがあった。そこには一見、ウサギらしき小動物が踏み荒らした小さな足跡以外、白い雪の上には何の痕跡もないように見えた。しかし、よく凝視していると、その奥の川岸へと続く斜面の側に、まるでカモフラージュしているかのように白い布を丸めたような小さな塊がポトリと落ちているのが見えたのだ。

 ラルフはその塊が何なのか見当が付いたのだろう。一瞬後には手にしていたナタを振って下草を払うと、倒木を飛び越え走り始めていた。

「おい、ラルフ!」

 ダルクはラルフを引きとめようと慌てて手を伸ばしたが、その手はラルフのひるがえるマントをかすり、空をつかんだだけだった。
 ダルクは内心、息子の成長に笑みを浮かべずにはいられなかった。体も大きくなり、広範囲に動けるようになり、いつの間にか今までできなかったことを軽々と乗り越えていく。その逞しさ、そのしなやかさ。小さく柔らかだった体が成長し、今、目の前で雪を蹴散らしながら駆けて行く。
 ダルクは獣道から動かず、状況を見守ることにした。


 ラルフの足元の雪は、時折きらりと光を跳ね返し、宝石の粉を撒き散らしたように無数に光っていた。気温が低いため、雪の感触はさらさらの砂のようだ。
 森の常緑樹に降り積もった雪で、頭上の空間は埋まり、獣道から一歩踏み込んだだけでもそこは光が届かず薄暗い。ラルフは雪を踏みしめて歩きながら、マントの中にしみこんでくる冷気にぶるっと身震いした。


 ――なんで……、こんなところにどうして……。
 もう死んでいるかもしれない。その白い塊が何か見当が付いたときには、ラルフはすでに諦めが胸中をかすめていた。
 ここまで近づいてくると、それが何なのか、はっきり確認できる。ずいぶんと長いこと旅をしていたのだろう。アブロウ牛のなめし皮で作られた旅用の重くて大きな靴が、相当くたびれて泥で汚れているのが見えた。靴のサイズが合っていないのだろう。足首を皮ひもで絞めている。

 その時だ。ラルフが雪の下の小枝を踏み、ポキッと音がしたその時、その白い塊が微かに動いた。

 ――生きている!?

 ラルフはあわてて駆け寄った。
「大丈夫か!」
 足元の雪が飛び散り蹴散らされる。傍らに膝をつき、塊の上に手を置いてそっと覗き込むが、今度は動かなかった。気のせいだったのか。
 真っ白なフードに薄っすらと積もった雪を払って、ラルフはゆっくりとそれをめくった。


 ラルフのアズライトブルーの瞳が、驚きで見開かれた。息をするのも忘れてしまうほど、その眩しいほどの輝きに一瞬で見せられてしまっていたのだ。
 そこには、少女が一人横たわっていた。冷気にさらされ、透き通る磁器のように滑らかで美しい真っ白い肌。漆黒で艶やか長いまつげ、丹精で美しい横顔。そして何よりも目を引く、つやめく月の光のような長い銀髪。まるで、夢物語に聞く雪の精が姿を現したかのようだ。

 ――なんて綺麗なんだろう。
 ラルフは自分と同じ年くらいのその少女に見入った。