第一章 鎮魂の舞 2

 ラルフをじっと見つめていた女の瞳が、ふと悲しげに曇った。
「何がお前をそんなに悲しませているのか、私には分からない。しかし、泣くことが恥ずかしいと思うのは、もっと先でいいんだ。今、泣きたいときに泣いておかないと、そのうち痛みも感じられなくなってしまう」
 女のかすれた声は穏やかでゆっくりと流れてくる。疲弊し冷え切ったラルフの心に心地よくそれは届いた。
「今は涙から逃げちゃいけない」
と、女は続ける。
「心は痛がりだから、人はその時涙を流す。涙を流すから、傷は癒え、その痛みもやり過ごすことができるんだ。そうしないとお前はもっと傷を深くしていくだけだぞ。……それとも、お前は己をいつまでも哀れんでいたいのか?」
 ラルフには、女の言っていることが理解できずにいた。泣かないと傷が深くなるのはなぜか。しかし、あと少しでその答えが自分の中から生まれるような気がして、ラルフはその言葉をそっと記憶の奥底に刻む。
 押し寄せる悲しみで硬く握り締めていた両手から力が抜けていった。そして、女の不器用な優しさに触れて、ラルフは声を上げて泣くことができたのだった。

 いつの間にか、泣き疲れて眠ってしまったのだろう。ラルフはふと目を覚ました。
 辺りは明るくなり、頭上に覆いかぶさっている木の枝の間からは、温かな日差しがラルフの頬に落ちてきた。目の前の焚き火の炎もとろとろと、炭になった木片の端をなめている。
 辺りには女の姿は見当たらなかったが、ラルフの傍らに大きな荷物が投げ出してあるところを見ると、ただどこかへ出かけているだけのようだ。

 辺りは鬱蒼と生い茂る森。ラルフの身長ほどの下草がびっしりと生え、背伸びをしてみてもそれほど遠くは見通せない。
「彷徨いの森だ……」
 ラルフはここがどこだか見当が付いた。
 テルテオ村の南に広がる、広大な森、通称『彷徨いの森』。地の利のある村人でもあまり近寄らない場所なのだ。

 ラルフが身を投げたコドロー橋の下を流れていたシナイ川は、この彷徨いの森を抜けると、やがて川幅が広くなり、アロフ国の真ん中を通り大海へと繋がる。自分はまだアロフ国の手前にいるのだと想像できた。森が途切れた辺りがアロフ国とノベリアの国境に位置するからだ。
 ラルフが今いる場所は、川岸に面している部分で、そこだけ砂地だったためか草も生えず円形に開けている。ラルフは川へと歩み寄ると、その冷たい雪解け水を両手ですくった。
 この水は今でもテルテオから流れてきていて、自分と繋がっている。しかし、もうあの場所には戻ることはできないかもしれないのだ。
 波打つ川面を見つめると、魚が飛びはね水の飛まつがきらきらと光を反射して飛び散り、失った日々の輝きに満ちた生活が脳裏によみがえる。
 もう二度と戻れないかもしれないと分かっていても、なんでもない平凡で穏やかな日常と別れるのが、こんなにも勇気がいるなんて知らなかった。ラルフは、前を見よう、ここから離れる覚悟をしようと深呼吸をした。

 その時、森の奥でがさごそと下草がこすれあう音が聞こえてきた。ラルフは振り返って目を凝らす。
 重い足音が混じっているところから、女が歩き回っているのが分かる。分かるのだが…。
「な、何してるんだ?」
 下草から肩より上をひょっこり出した女が、ラルフの傍を通り過ぎていく。少し行くと、女はきょろきょろと辺りを見回し、また角度を変えてがさがさと進む。
 も、もしかして、この至近距離で……。
「迷ってるのか?」
 ラルフはありえないだろうという気持ちで、しばらく女を見つめていた。しかし、何度も辺りを見回してはがさごそと歩き回っている様子を見ると、やっぱりどう考えても迷っているように見えて仕方がない。
 このままでは夜になるんじゃないかと急に不安になり、ラルフは森のほうへ駆け寄って女に声をかけた。
「おい!ちょっと、あんた!」
 ラルフの声を聞いて、明らかに女の足がこちらを向いたのがわかる。草を踏みしめる足音がだんだんと近づいてきた。

 少しすると女は何事もなかったかのように、すました顔で森から出てきた。ラルフが声をかけたのもさっぱり忘れているかのようだ。それも、手には大きなテルテオ猪を軽々と掴みあげている。
「なんだ、起きたのか」
 ――あんた、俺が起きなかったら、まだこの辺りを迷ってただろ。
 とは思ったが口にはしない。
 女は何事もなかったような顔で、なおも手にしていた猪をちょっと持ち上げた。
「昼飯獲ってきた、腹が減っただろう」
 ――あんたは溯上(そじょう)してきたサケかなんかを捕まえるクマか!?
 と湧き上がってきた言葉も、謹んで口にはしないよう我慢をする。

 この女、何者だ?
 フードを被って、体を覆うマントを付けていると、盛り上がった肩幅と長身で一見して男に見える。長身の割には少し細いが、筋骨隆々というよりかは、草食動物を追うしなやかで抜け目のない肉食のハンターのような、無駄なものはすべてそぎ落とされた体格だ。

 ラルフの横に投げ出してあった女の荷物の下に、剣を収めた革製の鞘が見えた。それも長剣だ。ということは、猟師ではなく剣士ということだろう。
 ――それならなおさら、なんでここにいるんだ。そんな猪の肉をわし掴みして……。
 女は手馴れた手つきで肉を分け火にあぶる。やっぱり何かおかしい。
「あんた、どうしてこの森に住んでるの?」
「住んでるわけじゃない」
 女は突き放すように答えた。まるで話すこと自体が億劫なのかと思えるほどだ。そして、聞くなと拒絶し警告しているような口ぶりだ。多分、後者のほうが正しいと思える。
 だが、ラルフはだんだんと聞かずにはいられなくなってきていた。
「じゃあ、ここで何してるんだよ。あんた、どう見たって旅人だろう?」
 女は横目でじろりと見ると、火にあぶっていた肉をラルフへ突き出した。
「私はシェシル。この森にはここ二・三日ほどいる」
 なぜいるのかは、やはり更々答える気はないらしい。
 ラルフは手にした、まだほとんど生焼けで血が滴っている肉を見つめた。
 ――これを食えと?
 豪快なのにも程がある。調味料はどうした、と聞きたいくらいだ。いくらどうでも塩くらいは欲しい。
 うるさい、黙ってこれでも食え、ということなのだろうと察しはついたが、もうラルフの口は止まらない。

「……やっぱり、迷ってここから出られなくなったんだな」
 ラルフはため息交じりでつぶやいた。だってどう見たって、さっきの光景はここまでたどり着けずに迷っていたとしか思えない。
「方向音痴だろ。さっき……!!」
 ラルフの言葉は途中から途切れてしまった。それどころか一瞬でラルフの足が地面から浮き上がる。ラルフの手から生焼けの肉がぽとりと落ちた。
 シェシルの顔がラルフの目の前にある。シェシルは、驚くべきスピードでラルフの胸倉を掴むとぐいっと引き寄せつるし上げたのだ。ラルフの目前で、シェシルの瞳が怪しげなほど邪悪に輝き、口元が危険な笑みを作っている。
「あれだけピーピー泣いてたくせに、大層な口を利くようになったじゃないか。ん?坊や」
「いや……、ちょ、ちょっと……くるしい……くるし……」
 ラルフはシェシルに吊るされて首が絞められ、みるみる内に顔が赤黒くなってくる。そんなラルフをシェシルは「フンッ!」と鼻で笑って手を離し開放すると、焦げそうになっていた肉を口に含んでほお張った。ラルフの苦しそうな顔を見て、どうやら満足したらしい。

 げふげふと喉を押さえてむせ返ってしゃがみこむラルフを、意地悪な目で見ながら、からかうような口調で言葉を続けた。
「しっかし、坊やのくせにいいものを身に着けてるもんだな」
 ラルフの耳のピアスにシェシルの視線がいっていることに気がついて、自然と手が耳たぶに伸びた。指先に固いものが触れる。
「俺は坊やじゃないぞ。ラルフだ」
 ラルフはちょっとすねたように反論し険しい視線を送ったが、シェシルには蚊ほどの威力もなかったようだ。
 生意気にとでも言わんばかりに、シェシルはそんなラルフの事など無視してさらに話を進めた。
「ラピスラズリだろう、それ。どこで手に入れたんだ。細工も細かいし石も上物だぞ」
「…もらったんだ」
 ラピスラズリという言葉を聞き、その存在を確かめようと指先が動く。ラルフはピアスを耳からはずし、手のひらの上で転がした。テルテオ村の、あの丘から見上げる星空を思い出していた。
 火に薪をくべながらシェシルは口を閉ざす。ラルフの目にまた悲しみがちらついたからだ。シェシルが急に黙ったのを敏感に感じ取り、また自分が見せたくない表情をしてしまっていたと感づいた。ラルフは照れ隠しも手伝って、シェシルと出会ってからずっと話しかったことを口に出してみた。