第一章 鎮魂の舞 5
「この木の実は脂肪分が多くて栄養価が高いんだ。こっちのきのこは、このまま生で食べてもおいしいよ」
シェシルは手にしたきのこを見つめると、ひょいと口に放り込んだ。どうやら旨いと感じたらしい。もうひとつつまんで口に運ぶ。
「なら、これも食べられるのか?」
傍らの樹の幹から生えていたきのこをもぎ取って、シェシルは目の前にかざしてじっと見た。
そのきのこはいかにも、――僕は毒キノコです!――といわんばかりの赤に黒い点々の模様のかさだ。きのこなら何でも食えると思っているのか?
「やめといたほうがいいと思うよ。それ、毒をもってるし。けたたましく笑うあんたを見てみたいとは思うけど。ま、その体格なら毒も効かないかもね……うわ!」
食べてみたら?と言ったラルフの首を絞めながら、シェシルは手にした毒キノコを森の中に投げ捨て、目の前の木の実を口にした。
二人が、きのこと木の実を大方食べつくしたちょうどその頃、二人がいる森の中にはとうとう日の光が届かなくなった。辺りは昼と夜の境目を向かえ、森の住民たちも様変わりする。
指先も見えないほどの暗闇が、ひたひたと二人の周囲に忍び寄ってきた。その暗闇の触手から身を守るように、シェシルはラルフの体を抱き寄せる。
暖かなぬくもりがシェシルの肌から伝わってきた。その気持ちよさに体をゆだねながら、ラルフは森の音に耳を澄ます。森の夜の住民たちは、ラルフとシェシルを見ながら、お互いになにやら話をしているのだろうと想像した。かさこそと小動物が木の幹を駆け上がっていく。夜行性の鳥がホゥーホゥーと鳴いて仲間たちに、ラルフたちの存在を連絡しあっている。
その音に混じり、すぐ傍からシェシルの呼吸音が、規則正しく聞こえてきた。ラルフは目を閉じる。すぐに深い眠りがラルフの体を包み込んだ。
夢も見ないような、深い深い眠りだった。一瞬で水中から上昇したような目覚め。ふっと目を開けると、周囲は薄ぼんやりと明るくなっていた。
ピリッと刺激のある朝の冷たい空気が、周囲に漂っていた。
隣を見たがシェシルの姿はない。またどこかへ行っているのだろうか。
――下手に動くと迷うくせに……。
その時、ラルフの目の前の草むらががさがさと揺れた。
「シェシル?」
ラルフは草むらに問いかける。しかし、そこから現れたのはもこもこした茶色い毛に覆われた、耳の長いげっ歯類の動物、フォックルだった。
「まさか、シェシルじゃないよね」
フォックルは後ろ足だけで立ち上がり、長い耳をぴくぴくさせながら、真っ黒な瞳でラルフを見つめている。ラルフが片手を出すと、フォックルはぴょんと飛び跳ねて傍によってきた。
ラルフの手の匂いをフフフフと嗅ぐ。ひげが手の甲に触れてくすぐったい。
「神様も残酷だね、まさかこんな可愛い動物にシェシルを変えちゃうなんてさ」
ラルフはくすっと笑った。昨日の森の妖精の話を思い出したのだ。フォックルに手を伸ばして、そっと頭を撫でる。
「シェシルはどっちかって言うと、そうだな。肉食動物だね。生肉でも平気そう」
「誰が肉食動物だって?」
その時、ラルフの後ろの草むらからぬっと長身の人間が現れた。びっくりしたフォックルが、ささっとラルフの影に隠れる。
「どこに行ってたんだよ。下手に動くとまた迷うくせに」
シェシルはラルフの傍らから顔だけのぞかせている小動物を見ながら、地面に木の実を下ろした。
「今日はなにがなんでも、この森からでるからな。早く街に行ってまともなものが食べたい」
シェシルは赤いタッシェの実をつまんだ。
――あ、それはすごくすっぱいよ!――とラルフが言う前に口に含んでしまう。
「!」
シェシルの目が見開き、目に涙が浮かぶ。ラルフは小さな茶色い木の実をフォックルに与えて、シェシルを見ないように笑った。
「とにかくだ!今日は絶対森を抜ける。早く出発するぞ」
と、今度は苦いアブドの実を手にするシェシルだった。
荷物をまとめて立ち上がったシェシルが、ふとラルフの足元にいるフォックルを指差した。
「もしかして、連れて行く気か?」
まさかとラルフはかぶりをふる。
「そんなことしないよ。シェシルの餌になるのがおちじゃないか」
――肉食だもんなぁ――と足元のフォックルを抱き上げた。
「私はこんな食べ応えのないものは食わん」
シェシルはラルフの手の中の小さな生き物の頭を、指でちょんちょんとつつく。
「腹減ったら食う気かよ。こんな小さいの、あんただったら一口だろう。この森には、こいつの家族がどこかにいるんだ。離れ離れはかわいそうだよ」
ラルフは草むらに向かってフォックルを放した。きょとんとした真っ黒い目でフォックルはしばらく二人を見つめていたが、耳をぴくぴくっとさせるとさっと森の中へと駆け込んでいった。
「ナイフを貸して。早くここを出ないとね」
ラルフはシェシルに笑顔を向けて、草むらに踏み込んでいった。
昨日と同様の地形が続く。シェシルの大振りのナイフは、とにかく重い。ラルフは昨日から散々振り回したおかげで、腕の筋肉が悲鳴を上げていた。
出発してから一時間もすると、腕の筋肉がぶるぶると痙攣を起こし始めた。シェシルに弱音を吐きたくないと、ラルフは前だけを見て黙々と草を薙ぐ。
しかし、それももはや限界に近づいていた。狙いを定めても、手元が狂いナイフを何度も取り落とした。
ナイフに振り回されているのは一目瞭然だ。
「くっ!」
幹に突き立てた刃が抜けなくなり、ラルフは手を幹にかけ引き抜こうと苦戦する。足を踏ん張って両手で柄を握って引っ張るが、まったくびくともしなかった。
「もう駄目なのか?」
ラルフの背後からシェシルの手が伸びてきて、ラルフの手に重なる。横目でちらりとラルフを見たその表情は ――情けないやつめ――という小馬鹿にしたような微笑を浮かべていた。
ただ、指先に力を入れただけ。そんな感触がラルフの手に伝わってきた。ナイフは主人の命令だけに従う意志を見せたのか、するっと幹から外れた。
「馬鹿力……」
「何か言ったか」
シェシルは刃こぼれがないかを見ながら、じろりとラルフを見やる。
「べーつに」
「お前はな、体に力が入りすぎなんだよ。刃物を持つときには、関節を柔らかくしてゆるく持つのが肝心なんだ」
お前が荷物を持てと言ってラルフに手渡すと、シェシルはナイフをぶんぶんと音を立てて振り回した。刃が残像としてしか捕らえられないほどのスピードで振っている。とたんに、荷物を抱きしめているラルフの頭上に、下草がばらばらと降り注いできた。
「わあ!ちょっとシェシル!」
ラルフはあっという間に頭から草まみれだ。
さぞかしラルフの後ろで歯がゆい思いをしてきたのだろう。シェシルの勢いは留まることがない。とにかく目の前の草は全部刈る!という勢いでずんずんと進んでいく。
ラルフはシェシルのそんな後姿を見ながらため息をついた。
「あんたがなんで彷徨っていたか、わかった気がするよ…」
シェシルの動きがぴたっと止まり、顔だけラルフの方へと向けた。その目には――下手なこと言ってみろ、小僧。こいつで草もろとも一刀両断にしてやるぞ――という脅しの色がちらついていた。
「そうやって、いっつも闇雲に突き進んでいたんだろう。方向なんてお構いなしじゃ、誰だって道に迷うさ。俺たちは西に向かって進んでなくちゃいけないのに、さっきからあんたが草刈しながら何にも考えないでずんずんいくから、ほら、南に向かってるよ」
――あんたの性格、そのままなんじゃないの……。
ラルフが太陽から視線を戻してシェシルを見た瞬間、頭のてっぺんから氷水を浴びせられたような衝撃が来た。シェシルの瞳が今までになく邪悪に輝いていて、手の中のナイフの柄を握りなおすのが見えたのだ。
――しまった!言いすぎた!
声にならない悲鳴が、喉に詰まった。
「うぉりゃあ!」
その瞬間、ラルフの前髪が巻き起こった突風で後ろへと流れた。
その横では、激しい音と共にブナの木がなぎ倒されている。
ラルフは横目だけでその木のなれの果てを見た。恐ろしくて直視できない。
――ありえない……、ナイフで木を切り倒すなんて……。
「よし、こっちが西だな」
硬直しているラルフを無視して、シェシルは年輪を調べ、さっさと歩き出した。
ラルフは自然と自分の鼻先を指で触れる。薄っすらと血が滲んでいた。ナイフの刃はラルフの鼻先を皮一枚かすっていたのだ。
――ぜったい、わざとだ!
ラルフは心の中で大声で喚いた。なんて危ないやつなんだ!