第二章 記憶の傷跡 1

■2-1 命をかけるもの

 兵士から奪い取った馬にまたがり、シェシルとラルフは草原の只中を進んでいた。初夏の太陽は、真夏に比べればまだ奥ゆかしい感じではあるが、それでも肌をじりじりといためつける底意地の悪さを発揮している。目を刺す太陽の光をさえぎるため、二人ともフードを目深に被り、俯いて馬の首元を見つめていた。二人の足元には、影がくっきりと張り付いて常に付きまとってくる。
 周囲はどこまでも続く草原地帯。二人は身を隠すところが何もない場所を行くしかなかった。
 ――シェシルはどこへ向かっているんだろう。
 先ほどからラルフはずっとそのことを考えている。町は一向に見えてこないが、たまに荒れ果てた小さな小屋を見つけるたびにほっとする。人がいた形跡を見るだけで、自分が今進んでいる道は人の営みに通じているんだと思えるからだ。
 しかし、それにしても……。
「なあ、もう大分来てると思うけど、一体どこへ行こうとしてるんだ」
今更なんですが……、と付け加える。
 シェシルはラルフの問いかけに返事もしない。いやな予感がする。この状況はつい昨日、彷徨いの森で体験したばかりだ。ラルフは学習機能に登録されたばかりの記録を引き出す。

 ――その一、自分に分が悪いと沈黙する。
「本当にこの方向でいいのかよ」
 返事は返ってこない。

 ――その二、追求すると逆ギレ。
「……なあ」
「うるさい!今日中に着かなかったらどこかで野宿したらいいだろ」
 ほら、やっぱり何の考えもなしに進んでいたんだな。
「今日中に町に着いて、まともなものが食べたいって言ったのはシェシルじゃないか!町のある方向を知らないんなら、なんで最初に言わないんだよ!もういい加減自分が方向音痴なのを自覚しろよ」

 ――その三、さらに追求&口答えすると実力行使に出る。それもその技にはバリエーションあり。
 シェシルの大きな手が、ラルフの額を前から覆い隠してこめかみに指先を当てた。
「い~、たたた!痛いってば、シェシル!」
「道をたどっていけば町に着くんだよ」
 シェシルのぶすっとすねたような声が聞こえてきたが、ラルフは首を傾げた。
 ――この草原のどこに道なんてあったんだよ。
 もちろん今自分たちが歩みを進めている、その足元のどこにもそんなものはない。

 またもや、迷子なのか……。早くも……。森から出てまだ一日も経っていないのに。


「森にはどうやって着いたんだ?あの森は、プリスキラ大陸の一番東なんだ。その下から上がってきたのなら南、手前から来たなら西になるよ。どう、思い出せる?」
 シェシルは黙々と手綱を握っている。
「西……、だったかもしれない」
 シェシルの声は消え入りそうだ。
「今、どっち向いてるか分かる?」
 ラルフは空にさんさんと輝く太陽を示した。――ほら、ちゃんと太陽の位置を確認するんだよ――まるで子供に教えているような気分だ。
「……西だ」
 ――はぁ。
「ちっが~う!南向いてるだろう、今は!」
「い、いいんだよ。このままアロフかサルファイにでも着けば」
 ――あーあ、やっぱりそうきたか。
 ラルフは大きなため息をついた。
「アロフはテルテオから馬を走らせても五日はかかる道のりだよ。サルファイなんて十日以上かかるかもしれない。その間には集落すらないんだ」
 そんなことは、ラルフのような山間の村に住む子供だって知っている。
「何だと、お前それを知ってたのか!?なんでもっと早くに言わない!」
「そんなこと、あんたが自信満々に馬を走らせ始めたからだろう!?」
 ラルフはむっとして、振り返ろうとしたが、如何せん馬に乗っているこの体勢では無理がある。こんな体勢じゃなかったら、こんなにシェシルとの体格差がなかったら、一発殴ってやりたいところだ。
「俺だって、そのくらいのことは知ってるよ。西に半日も行けば、ラドナスっていう街があるんだ。聞き覚えあるだろう?多分、そこから森に向かってきたんだろうからさ」
 ――旅人のくせに、地図くらい持て!
 ラルフは心の中で叫ぶ。

「ラドナスを目指すなら今のうちだと思うけど。このまま北西に行けばいいんだ。近くなったらそれこそ道に出るよ」
 ラルフはシェシルの後方を指差した。今二人はほとんど反対方向を向いている。
「…………」
「なあ、シェシル」
なぜだか急に反応のなくなったシェシルにラルフは苛立った。
「アロフかサルファイに行くにしたって、それまでの食料も水も必要だよ。野宿ったって、こんなだだっ広い草原の真ん中でするつもりかよ」
 ――そりゃあ、ノベリアの兵士は絶対にラドナスを見張ってるだろうけど……。
 それでもこれから五日から十日の道のりを、食料を何も持たずに進むのは無謀だ。

「黙れ」
 シェシルは低い声をさらに低くしてつぶやく。
「黙ってられるかよ!」
 ラルフは身をよじってシェシルを見上げた。シェシルはラルフを見てはおらず、前方を見据え眉を寄せている。
「シッ!静かにしろ!」
 シェシルはラルフの口に手を当てて塞ぐと、手綱を引いて馬の歩みを止めた。馬から音もなくするりと降りると、シェシルは荷物に手をかけたままじっと前方に目を凝らす。
「な、なあ……」
 ラルフは少し慌てる。しつこく言い過ぎたのだろうか。馬を残してやるから一人で好きにしろとでも言われてしまうのだろうか。シェシルは荷物の中に手を入れると、自分の剣を引き抜いた。
 刀身に金色の古代文字で何か言葉が刻まれている長剣だ。太陽の光を反射して、きらきらと輝いてとても美しい。

 シェシルはラルフを見上げて睨みつけた。フードの奥の瞳がまたも怪しげな光を放っている。
「いいか。馬から降りてうろちょろしたら本当に殺すからな。分かったか。合図したら一人でも逃げるんだぞ」
 そういい残すとシェシルは馬から離れ、抜き身の剣を握ったまま森の方向へと駆け出した。
「ちょ!ちょっと待てよ!」
 ラルフはぽつんと残され、呆然とシェシルの背中を見つめる。何の事やらさっぱり分からないまま、馬の手綱を握って辺りを見回した。
 相変わらず太陽は頭上にあり、じりじりと肌を焼く。草原を渡る風は、ラルフの左側に広がる彷徨いの森の木々に当たり、ざわざわと葉を揺らしその見えない姿を誇示しようとするかのようだ。
 シェシルは腰を落とし、姿勢を低くしたまま草原の中を進んでいく。一体何が起きたのか、教えてくれてもいいのに。
 ラルフもシェシルに習い、馬の首に腕を回し身を低くした。