第二章 記憶の傷跡 2

 馬は少し落ち着かなげに前足の蹄を地面にこすり付けていた。
 ラルフの太ももには、馬の太鼓のような鼓動が伝わってくる。耳が前方に向かってピンと緊張していた。馬もシェシルもこの先に起こることを感じ取っているようだ。ラルフは、何も感じ取れない自分が情けなく、こうやって身を小さくしているしかない事にあせりを感じていた。
「教えてくれよ、何があったんだ?」
ラルフが馬の首筋を撫でながらつぶやくと、馬はぶふっと鼻を鳴らした。

 相変わらず、シェシルは前方を見据えたまま草原を進んでいく。弓なりに草原へとせり出している森の先端まで、足音なく進んでいく姿は、まるで獲物を捕らえようとする獣のようだ。森の先端の手前でようやく歩みを止めたシェシルが、その向こうに神経を集中しているのが見えたとき、ラルフにもようやく森の向こうに何かがいることに気が付いた。
 ――だから黙れと言ったのか。
それにも気がつけなかった自分が恥ずかしい。
 とたんに馬の鼻息と自分の鼓動が大きく耳を打ち始めた。口の中が一気に乾いて、汗がこめかみから滴り落ちる。草原を緩やかにすべる風の音も、まるで肌を刺すように感じられた。

 頭上を舞う一羽の鳥が、鋭く鳴く。

 その時、馬が大きく体を跳ね上げ嘶いた。突然の馬の行動に、ラルフは不意を突かれ跨っていた背中から落ちそうになり、鬣を握り締めて必死にしがみついた。激しく足をばたつかせる馬の鼻先に手を伸ばし、優しく撫でて落ち着かせようとする。
 まるで馬の嘶きを合図にしたかのように、シェシルの体が動いた。身を隠していた森の陰から、その先へと飛び出したのだ。必死に馬の首にしがみつくラルフの視界の端に、シェシルのマントがふわりと広がったのが見えた。
 自分がここでじっとしているべきか一瞬考えたが、すぐにラルフは手綱を引き、シェシルが飛び込んでいった森の向こうへと向かって走らせ始めた。
 周囲の風景が飛ぶように頬をかすめていく。前方から流れてくる風に、血の匂いが混じっていることにラルフは気が付いた。その匂いを感じた瞬間、ラルフはこの先で何が起きているのかを悟る。
 剣のぶつかり合う高音域の金属音が聞こえてきた。

 ――シェシルが戦っている!
 それを思うとさらに自分の心臓の鼓動が激しく打ち始めた。
 馬の背の上で自分の体がどうしようもないほど跳ねながら、ラルフは何とか荷物の中の自分の剣の柄に手を伸ばそうと試みる。指先が剣の柄のブルーペクトライトの宝石に触れたその時、急に馬の前に森の陰からシェシルと黒い甲冑の兵士たちが飛び出してきた。
「うわ!」
 ラルフは迫ってきたシェシルの背中を避けようと、慌てて右に手綱を引っ張った。
 馬が飛び出してきた人間を避けようと前足を蹴り上げる。ラルフの体は宙に放り投げられたように馬を離れ、地面にたたきつけられた。背中から地面へと落下しうつ伏せに倒れこんで、息が詰まって動けなくなる。シェシルの怒鳴り声も、耳がキーンと痛んでとても遠くに聞こえ、何を言っているのか理解できない。

 シェシルと対峙している男たちの黒い甲冑には、彷徨いの森の外でシェシルが首をはねた兵士と同じ紋章が入っていた。テルテオ村を焼き払ったノベリア軍の兵士たちだ。
 きっとまだ逃げ出した村人を始末しようと、周囲をうろついていたに違いない。
「馬鹿!なんで来たんだ!!」
 シェシルは剣についた血のりを振り払いながら、ラルフに駆け寄りその襟首を掴んでぐいっと立たせた。突然の馬の出現に驚いた兵士たちが怯み、一歩後ろに下がる。
 シェシルはその隙を突き、なおも攻撃を仕掛けるために兵士たちの中へと駆け込んでいった。
「早く行け!」
 シェシルはもうラルフの方を振り返らない。
「早く!」
 兵士の振り上げた剣を、片手で握った剣の鍔元で受け止めると、腰に下げていたナイフを引き抜き、兵士の首へと突き立てる。
「ぐはぁ!」
 兵士の握っていた剣がドスッと地面に落ちて突き刺さり、シェシルに胸を蹴り飛ばされて倒れこんだ。

 ラルフは馬に駆け寄ると、鞍に手をかけてよじ登り手綱を握ってシェシルを振り返る。
 兵士が二人、逃げようとするラルフの馬に駆け寄ってきた。兵士が剣を馬に突き立てようと剣を振り上げた瞬間、そのままの姿勢でつんのめる様にその場にどおっと倒れこむ。
 追いかけてきたシェシルの振る青白い剣の閃光だけが、その場に存在を示していた。もう一人の兵士が、その閃光を見て悲鳴を上げるが、シェシルの容赦のない剣先は、その兵士の鎖帷子に覆われている腕をも叩き落してしまう。
 悲鳴をあげ痛みに錯乱状態になりながら、自分の腕を拾おうとする兵士をシェシルは見下ろし、その腕を蹴り飛ばした。
「…………シェシル……」
 馬の上でまだ躊躇するラルフの方を、ちらりとシェシルが見る。
 その瞳は有無を言わさぬ迫力と凄みが宿り、アメジストの色に金色の炎が燃え盛っていた。シェシルの頬から滴り落ちる兵士たちの真っ赤な返り血が、ラルフの目に焼きついた。
 ――足手まといなんだ。
 当然何もできないのに、悔しさが胸に募った。
 ラルフは一度ぎゅっと目を閉じると、馬の首をシェシルとは反対の方向へと向け駆け出した。後ろを振り返ると、追いかけようとする兵士の首が、血しぶきと共に宙に飛んだところだった。
 シェシルは、ラルフがいなくてもこの場を切り抜けられるのだ。それどころか、自分はただシェシルの足かせになるだけでなんの役にも立たない。
 反対に自分は、自分の身一つ守ることができないほんの子供だということを、いやがおうにも実感する。
 ラルフは唇をかんで、背後から聞こえてくる男たちの悲鳴に耳をふさいだ。


 ――さてと……。
 シェシルは剣を構えなおして、甲冑に身を包んだ男たちの方を振り返った。遠ざかるラルフの乗った馬の足音が、シェシルの気持ちを落ち着ける。この他にもノベリアの兵士が草原をうろついていないとは限らないが、それでもこの場から逃がすことができた。
 ――今まで、こんな用心棒のようなことはしたことがなかったな。私は何をこんなにも必死になっているんだろう。
 こんなことには慣れていないのだ。らしくないなと心の中で苦笑する。
 どうやら兵士たちは、この剣の正体にも気がついたらしい。
 ――私の正体もわかってしまったか。
 兵士たちはシェシルを取り囲みながらも、じりじりと間合いを取って用心深くシェシルを見つめている。
 長剣の刀身がぬらりと血で濡れ、なんとも妖艶な気配だ。その刀身には、その長剣の名が金色の古代文字で刻まれていた。

 『Jastice of Bloody』
 血塗られた正義という名の剣。柄の先端には、濃緑色のブラッドストーンの台に、大きなアブド産のクリスタルがはめ込まれ、金線でアカンサスのダマスク模様が絡み付いている。
 ジャスティスの文字の部分に血が溜まり、そこが赤黒く浮き上がるように見えることから、いつの間にかそれを握るシェシル自身が――ジャスティス――と呼ばれるようになった。
 剣を握ったシェシルの、邪悪なほど怪しげに光るアメジストの瞳とその強さと共に、アブドクリスタルが血を浴びるごとに透き通るのだと、血を欲しがる魔剣だという噂が付きまとっている。
 ――しかたがない……か。
 口元に自嘲の笑みが浮かぶ。シェシルは、自分の運命にことごとく振り回されていると感じて苦笑しただけなのだが、周囲の兵士たちからしたら、ジャスティスの(たが)が外れた瞬間、絶対にもう自分たちの命はないと戦慄を覚えた瞬間だ。

 ――私が命をかけるもの。いつもそのためにこの剣を握る。
 シェシルは手の中の長剣の刀身を返し、そこに刻まれたもうひとつの文字を見た。
 『Stable will』
 今はその想いにもっとも近いものの為に……。
 ――私はその為に今まで生かされていた。
 シェシルは遠巻きに自分を囲む兵士たちに向かって、剣を振り上げた。