第二章 記憶の傷跡 3

 いままで、ラルフはテルテオ村から一歩も出たことがなく、周囲の森と谷沿いに続く豊かな村、遠くにそびえるベチカ山脈がラルフの人生のすべてだった。
 人の生き死には知ってはいたが、こんな形で命が絶たれてしまうのは初めてだった。生活の為に狩りに出て動物を捕らえたときも、父ダルクには――魂の解放だ。お祈りしろ――と教えられてきた。自分の命の糧のため、命を落とした生き物の魂を自分の体へと受け継ぐために。
 しかし、それと人を殺めることはまったく違う。
 シェシルはなぜ、あんなにも無情に人を殺すことができるのだろう。何のために人を殺めるのだろうか。自分の前にただ立ちはだかった障害物だから?ただ、傍らにいた自分を助けるため?
 なんの為に、あんな凄まじいまでの剣技を身につけたのだろう。

 夜の帳がひたひたと草原に這い寄ってきた。馬に乗って街を目指してから、ずいぶんと時間が経ったことにラルフはふと気が付いた。
 もうそろそろ、ラドナスの街へと続く道が見えてきてもいい頃だ。ラルフが馬の足を止め、周囲を見渡したその時、なにやら黒い影が前方に建っていた今にも崩れ落ちそうなぼろぼろの小屋の陰から飛び出してきた。
 ラルフはまたもやノベリアの兵士かと心臓が縮みあがり、慌てふためいて剣の柄に手を伸ばす。
「待って!」
 その声はまだ少年の甲高さを残していた。
 ラルフは慎重にその声の主を見定めようと目を凝らした。
「ま、待ってくれ!」
 ラルフが剣を抜いてちらつかせると、その声の主はさらに甲高い声で叫び、馬の足元へと転がり出てきた。
「そんな物騒なものしまってくれよ。ラドナスまで行くんだろう?乗せてってくれないか?」
 その少年の年のころはラルフと同じ位に見える。やせ細っていて、あちこちが擦り切れた服を身にまとい、髪はごわごわに縮れていた。何かを大切そうに抱えているが、薄暗くてよく見えない。
 ラルフは害はないだろうと判断し、持っていた剣を鞘に収めた。少年は、ラルフが剣を収めたことにほっとしたのか、手を伸ばしてラルフの足首を掴む。
「ラドナスまで案内するよ。いいだろう?」
 ラルフはシェシルのことを考えたが、今はまだ戻ることはできないだろうと思った。それに、また戻ったところで、軽率だと怒鳴られるだけだと想像できる。それどころか、またもや道に迷ったシェシルと会うこともできなくなるかもしれない。それならば、ラドナスで身を潜めて、シェシルがどうにかしてたどり着くのを待つほうが得策だ。

「街は近くなのか?」
 ラルフが言葉を発したことに気をよくしたのか、少年の顔がぱっと笑顔になった。
「ああ、この先に西に向かう道があるんだ。最初の二股の道の右のほうを行けばラドナスさ」
 馬の足なら二時間ほどだそうだ。街の門が閉まる前にはなんとかたどり着けるかもしれない。
 二股に分かれた道という言葉がラルフには引っかかる。シェシルは大丈夫だろうか。
「近いところにある街はそこだけなのか?」
「ここはもうコドリスとの国境も近いから、街はラドナスだけだぜ。ここからアロフなんかの国境を越えるための商人とかが一斉に集まるから、街は大きいし賑やかなのさ」
 それならば、シェシルも間違えないだろうと思うことにした。大きい街ならば、身を潜めることもできるだろうし。

 ふと、そのみすぼらしい身なりの少年を見て疑問がわいてきた。なぜ、街から離れたこんな場所で一人でいるんだろう。
「なあ、ところでなんでこんな場所にいるんだよ」
 ラルフが質問をぶつけると、少年は少したじろいだ様子で、辺りをなぜかきょろきょろと見渡し始めた。
「昔ここら辺にあった農場の、捨ててあった納屋に住んでるんだけど、食い物を調達しに行かなきゃならないんだ。もう食い物が底をついちまってな」
 少年は先ほど自分が飛び出してきた崩れそうな小屋を指差した。あそこに住んでいるのか。
「ラドナスなら、オレいい店知ってんだ!きれいな残飯もあるし、ただで休めるところも知ってるぜ」
 ラルフは、なるほどとうなずいた。この少年はその残飯を集めに行くのか。
「それじゃあ、後ろに乗れよ」
「いいのか!助かるよ!」
 少年は苦労しながらも、何とか鞍の上によじ登り、ラルフの肩越しに街へと続く方角を指差した。