第二章 記憶の傷跡 4

■2-2 刻まれた記憶

「街の明かりが見える!」
 腹の虫がどうにも収まりきらないくらい鳴り出してから、かなりの時間が過ぎた。あたりはすっかり暗闇に覆われ、天空に光り輝く宝石の粉のような無数の星が美しくきらめいていた。東の空に浮かぶ二つの月が、静寂の銀色を湛え、草原を薄明かりに照らし出している。
 その光の強さは、二股に分かれた道の看板に書かれた文字までも見ることができるほどだ。その右側の道の向こうに、街の明かりが輝いていた。人が沢山いると思うだけで、ラルフは叫びたいほど嬉しくなった。

 またラルフの腹が、搾り出すような声で鳴く。今日は朝に木の実を少し食べたきりで、それ以来何も口にはしていない。馬の背に括り付けてあったシェシルの荷物に何か入っていないかと思い少し荷を解いて見てみたが、案の定何も入っていなかった。想定の範囲内というやつだ。
 旅人のくせに携帯用の食料さえ持っていない。考えてみたら、彷徨いの森で迷っていた間に、食料も底をついたのだろう。

 だが、シェシルの荷物を探っていて、思わぬものを見つけてしまった。
 袋の底のほうに、丁寧に麻袋に小分けされ、分類されて布に包まれていた金の塊、ノベリア金貨、コドリス銀貨、サルファイ・デナルの紙幣の束、それに大量の宝石がごっそり出てきたのだ。宝石も高級で大きな石ばかりで、それこそ一財産はあろうかという量だった。
 ラルフはちらっと中を見たが、一緒に来た少年にはそのことを隠し袋の底へと丁寧に戻しておいた。
「腹減ったなぁ」
 ラルフの後ろで少年がつぶやく。
「もうすぐ着くさ。それまで我慢しろよ、インサ」
 少年はインサと名乗った。インサというのは、ここら一帯で獲れるサンパスという川魚の心臓を使った下痢のくすりのことだ。それを知ってか知らずか、それが本当の名前なのかも怪しいところだと、ラルフは思っていた。

 インサは物心ついた頃から孤児だったのだという。あちこちの街で物乞いをしながら東に流れてきて、今の住処に落ち着いたらしい。聞くところによると、街でさまざまな仕事もしたことがあるそうで、森の暮らししか知らないラルフには始めて聞くことばかりだ。
 なんでもこれから向かうラドナスは、裕福な商人たちが沢山集まる活気のある街で、食べ物が豊富に手に入り、なおかつ旨いのだそうだ。
 ラドナスの明かりが頬を照らすほどになると、賑やかな人の話し声や陽気な音楽が聞こえてきた。
 黒く燻して油を塗りこめた板を何層にも重ね、中の家の屋根を越す高さにまで積み上げた高い壁がぐるりと街を取り囲んでいる。
 街に入る入り口は北と南に一箇所ずつ。真夜中の太鼓が鳴る頃には、その跳ね上げ式の大きな門が閉ざされ、朝まで開くことはない。
 黒い門をくぐるとき、門番がインサに話しかけてきた。
「ようインサ、久しぶりだな。どうしたんだこんな時間に」
 門番は片手に酒瓶を握っている。すでに酔っているらしく、ちょっとろれつが回っていない。
「おや、仲間を連れているのか」
 充血した目がラルフの顔を覗き込む。酒臭い息に顔をしかめて身を引いた。
「アロフから旅をしてきたんだ。ここに立ち寄る途中でインサを拾ってここまできたんだよ」
 ラルフはうそをつく。インサにもここに来る前同じことを言ったのだ。
「ほう、そうなのか」
 ご苦労さんだったな、まあ入れやと門番はあっさり通してくれた。――あれで門番が務まるのか?――とラルフは首を傾げたが、深く追求されずに済んで助かった。インサがいたおかげかもしれないと思う。

 門をくぐると、そこは昼間のような騒がしさだった。あたりは夜の色濃く、空には星が瞬いているのに、街は静まる気配がまったくない。
 どこからともなく旨そうな飯の匂いが漂ってくる。
 ラルフは今の自分の状況も忘れ、うきうきしてきてしまう。なにせ、街に来るのは始めて経験なのだ。
 テルテオ村の夜がこんなに騒がしい時は、豊作を感謝する祭りの日と、どこかの家で子供が誕生したときに村中で祝うときだけだった。

 馬から降りて、手綱を引きながら街の中へと入っていく。
 街の門の脇に宿屋があり、馬番の男が、食べかけの緑色のりんごを片手に眠そうに腕を組んで壁に寄りかかっている。道端に机といすを引っ張り出した男たちが酒を飲み交わしながらチェスをしたり、飯屋の前でグラスを片手に歌を歌ったりしていた。
 ラルフは口をぽかんと開けたまま、ただただその騒がしさに見入っていたが、横からインサが荷物に注意しろよとたしなめた。馬の背に括り付けていた荷物を鞍の前へと乗せ直し、ラルフたちは再び街の中を歩き始める。
 シェシルと再開したとき、荷物を盗まれたなんてことになっていたら、間違いなく殺されると、安易に想像できた。
 街の中心部に近づくと、一層その賑やかさと活気が増してきて、二人の体を包み込んだ。
 足元の地面には色とりどりのタイルが美しく敷き詰められ、たくさんの街灯には赤々とした炎がともされている。中央広場の水のオブジェの周囲を、ぐるりと店が囲み、そのどれもが客をひきつけてにぎわっていた。
 道の両脇に出ている露天の店主ったちが、往来する人々に陽気に声をかけている。飲み屋の店先に置かれた多くのテーブルには、まだまだこれからよと酒を酌み交わし大声で笑う男たちが集まっていた。女たちは肌もあらわに、行き交う男たちの腕を引っ張っている。