第二章 記憶の傷跡 5
テルテオ村では見られなかった背の高い石造りの建物。どの家の窓も開けられて、中は楽しそうな笑い声に満ちている。
「なあ、お前、街は初めてなのか?」
インサは、口を開けっ放しにして目を丸くするラルフの顔を、面白そうに覗き込んだ。
「街って、どこもこんな感じなのか?」
「ああ、まあ、ここは特に騒がしい街だ。商人の集まる街だからな。ここから南西に行ったところにあるサンダバトナも大きい街だぜ。なんせ国王軍が駐留するところだし。そっちは大聖堂もあって、街の周りにたくさんの村も点在してんだ」
ラルフは、この世界は自分の知らないことで満ちていることに始めて気が付いた。これから自分は、こんな知らないことばかりに遭遇しながらジェイを追わなくちゃならないのだ。
そんなことをぼんやりと考えていたラルフの前に、インサが見たこともない真っ赤な実を差し出した。
「食えよ、ここまで馬に乗せてくれたお礼だ」
ラルフは真っ赤な果実をひとつ受け取ると、それを鼻に近づけた。甘酸っぱくていい香りがする。
インサが大切に抱えていたものは、彼の全財産だったようだ。自分も露天から同じ実を買うと、金の袋の口をしっかりと縛って懐にしまう。
「うまい!」
腹が減っていてせいもあるが、初めて口にしたその果実の汁が口いっぱいにあふれ出し、ラルフは思わず笑顔になった。
「よかったな。よし、もっと旨いものを食わせてやるよ。こっちだ!」
ラルフとインサは、人ごみをかき分けながら中央広場を抜けていき、広場に面したところに立っていた宿屋の裏に入る。
脇を幅の広い水路が流れていて、さらさらと水の流れる音がした。街灯は一本も立ってはいなかったが、家々の裏口から漏れる明かりで、あたりは薄ぼんやりと明るい。
その路地に一歩足を踏み入れた瞬間、表の騒ぎがうそのように静まり返る。
ところどころに、表通りにもいた肌を露出させた女たちが、長いキセル型のタバコを燻らせながら、アンニュイな表情でけだるそうに立っていた。
「おや、インサじゃないか。どうしたんだい?その坊やは。あんたの仲間なのかい?」
女がタバコをはさんだ指先で、自分の長い髪の先をいじりながら小首をかしげた。赤く引かれた口元は薄く開いている。
「ああ、オレの弟分だ」
インサが妙に気取った態度で答えた。
――弟分だと!?
「ふ~ん。あんたの仲間なら安くしとくよ。ふふ、可愛いじゃないか」
女はインサの言葉を鼻で笑うと、壁から身を起こしラルフに近づいた。胸の谷間を突き出すような姿勢をとり、ラルフの頬を撫でると、顔にタバコの煙をふきかける。硬直しているラルフをからかっているのだ。
「悪いなデルシーネ。こいつはそんなんじゃないんだ」
デルシーネがくすくすと笑いながら、冗談だよとラルフから離れた。
インサは手を振って女と別れると、さらに路地の奥へと進んでいく。
「な、オレってこのあたりじゃ顔が利くだろう」
インサは得意げにラルフを振り返った。なにか、釈然としない。
路地を奥へと進むに連れて、暖かい食べ物の匂いが漂ってきた。また腹が鳴る。
「ここだ」
インサが立ち止まったところは、店の裏口といった感じの場所で、ドアの傍らに置かれた大きな樽の中には、生臭い魚の頭だけがたくさん詰まっていた。
――旨いものって、まさかこれじゃないだろうな。
怪訝そうに眉をひそめたラルフを見てインサは苦笑した。
「まさか、これじゃねえよ。中にあるんだ。おーい、マスターブリッシュ!」
インサは大きな声で誰かを呼びながら、裏口のドアをたたく。ドアの向こうでは、包丁で何かを刻んでいる音や、料理のオーダーを読み上げる声がひっきりなしに飛び交っている。
何度目かインサがドアをたたいたとき、中から閂を抜く金属がこすれた音がし、がちゃりと留め金が回ってドアが開いた。
ドアが開かれ、頭上から男の声が降ってきた。
「インサか、今日は遅かったじゃないか。まあ中に入れ」
ドアの向こうに立っていた男は、その巨漢のせいでその向こうが見えないくらいだった。体はドアの幅よりも横幅がある。これでは外に出られないんじゃないか?
男のぱんぱんになった腹に巻いたエプロンが、揚げ油や肉や魚の血で凄惨なまでに汚れていた。
「マスター、今日はもう一人連れてきてんだけどいいかな」
マスターと呼ばれた男は、インサの後ろで馬の手綱を握って立っているラルフをちらりと見ると、顎をしゃくりながら手にしていた大振りの包丁で向かいの小屋を示した。
「馬はそっちの納屋につないでおくといい。中に飼葉もあるからな。荷物は持ってくるんだぞ。裏通りはぶっそうだからな」
マスターが奥へと引っ込むと、とたんに包丁の音とお客の笑い声が裏口から溢れてきた。それと一緒に、旨そうなフィッシュフライの香りも。
「それじゃあ、オレは先に中で食ってるから」
インサはラルフにそういい残すと、裏口をくぐって中に入っていった。
ラルフは馬を引っ張っていき裏路地の反対に立つ納屋の戸を開ける。戸の横にかけてあったオイルランプに火を灯すと、それを掲げ持ち中をざっと見渡した。オイルの焼ける甘ったるい匂いが微かに辺りに広がる。
納屋は倉庫の役割も果たしているようだった。酒樽と穀物の袋が入り口辺りに積んである。その反対側に馬を寝かせる干草と飼い葉おけが置かれていて、納屋の中央に立っている柱に、馬をつなぐ金属の輪が取り付けてある。
ラルフは馬から荷物を外し、長剣を壁に立てかけ、シェシルの長剣の鞘も一緒に並べる。
「シェシル、無事にここまでたどり着けるかな」
もう、シェシルがあの場を切り抜けられないという心配はしていなかった。ただ、あの方向音痴が、どうも……。
思いのほか大きい街だ。ラドナスまでどうにかしてたどり着いても、この街の中で会えるのだろうか…。
とその時、またも腹がよじれるような音を立てた。ラルフは胃の辺りに手を置き、もうどうにも収まりきらないその音にため息を吐く。
「ごめん、シェシル……」
――心配だけど、俺も腹ペコなんだ。
ラルフは手早く馬の綱を柱に結ぶと、馬の鼻を撫でてやった。朝から一日中歩かせてしまった。大分と疲れているようだ。
「この飼葉食べてゆっくりやすめよ」
飼い葉おけを馬のほうへとずるずると移動し、新鮮なものをより分けてその中へと入れてやる。
「後でりんごかニンジンがあったら、もらってきてやるからな」
ラルフは迷った挙句、自分の長剣を干草の中へと隠し、シェシルの荷物を担いで、インサの待つマスターブリッシュの店の裏口をくぐった。
ラルフが席に着くと、皿の上に大盛りに盛られた料理が運ばれてきた。ラルフがフィッシュフライを口に頬張った瞬間、あまりのおいしさに目を見開いてインサを見つめた。
インサは満面の笑みを浮かべて得意げだ。
「な!旨いだろう!」
ラルフの前に出された料理は、ボイルされたカニの爪とカリカリに炒められた薄切り肉を散らしたサラダ、メインにカルソンのフィッシュフライのトマトソースかけだトマトソースはハーブが効いていて味わい深い。
「当然さ。なんせこのマスターブリッシュ様が腕によりをかけて作った料理だからな」
腹いっぱい食えよと、マスターはラルフの頭をくしゃくしゃに撫でた。巨大に膨れ上がった腹を揺らしながら豪快に笑い、そしてバリトンのいい声で歌い始めた。
♪俺はこの街一番のコックさ。
みんな俺の料理で陽気になれる!
旨いのは当然だ。料理は俺の愛情そのままだからな。
観客と化した店の客たちは、大きなエルゴー酒の入ったグラスを持ち上げ歌に合わせて歓声をあげる。