第二章 記憶の傷跡 7
「どうやって、ラドナスまで来たんだ?歩いてだったらもっとかかったはずだよ」
シェシルは、昨日の夜とはうって変わって静かな表通りの露店の前を通り過ぎ、街を歩いている。まだ朝早いとはいえ、店の開店の準備を始めた店主たちがちらほらと表の掃除をしたり、商品を棚に出したりしてる姿を見かけた。その誰もが手を止めて、通り過ぎるシェシルの姿を目で追っている。
皆一様に節目がちに、遠慮したような仕草だが、その目に侮蔑の色が浮かんでいることにラルフは気が付いた。しかし、見てみぬふりをして後ろをついていく。
「ノベリア軍の馬が一頭あったから、それに乗ってきたんだ。朝方着いたばかりだ」
「門が開く前?夜通し馬に乗ってたの?」
やはり相当迷いながらも、強運なことにここに着いたという感じだ。ラルフよりも倍ぐらいの時間がかかっている。
「馬の上で居眠りしていたら、ここにたどり着いていた」
――そうか、馬が連れてきてくれたんだな。感謝しろよ。
ラルフは納得しながらシェシルが足を止めたほうを見つめた。そこは、昨日の夜インサと旨い飯を食べたマスターブリッシュの店『アフィシオン(愛好家)』だ。
アフィシオンはもうすでに開店しているようだ。朝早くに旅立ちたい旅商人たちが、朝飯を食べるためだ。シェシルは入り口のドアをゆっくり押して、中へと入っていく。馬の手綱を握り締め、ラルフは入り口から中をうかがった。
シェシルが店内に踏み込んだとたん、店の中の喧騒がやむ。朝飯を食べながら談笑していた客たちが、一斉に口をつぐみシェシルを見つめ眉をひそめたのだ。
「マスター、エルゴー酒と何か旨いものを頼む。この坊主にもな」
シェシルは奥のカウンターでフライパンを振っているマスターに声をかけた。どうやらシェシルはマスターブリッシュを知っているようだ。
店の入り口で馬の手綱を握って立っているラルフをマスターは一瞥し、シェシルにこう言った。
「傭兵はお断りだよ。そんなに血の匂いをぷんぷんさせられてちゃ、商売上がったりだからね」
「え!?」
ラルフはびっくりして、シェシルの後姿とマスターを交互に見た。周囲に座っていた客たちも一斉にシェシルから目を逸らし、目の前の皿に視線を戻す。昨夜と打って変わって、マスターの表情は険しい。
「すまないね、坊主」
マスターはラルフの方へ向かって片手を挙げ、そのままキッチンの奥へと引っ込んでしまった。
「悪かったね、マスター。あとで出直してくるよ」
シェシルは気を悪くした様子もなく店から出てきた。
シェシルは再び表通りを歩き出し、開店したばかりの露店でなにやら交渉を始めた。ラルフはそれを少し離れた場所で見守る。露店の主人も最初は引きつった表情でシェシルを見ていたが、彼女が懐から取り出したものを受け取ると、急に愛想をよくしてあちらこちらの棚のものをかき集め、大きな包みにして手渡した。
そして、それを小脇に抱えたシェシルは再び歩き始める。その後も、シェシルはいくつかの店に寄って、次々と品物を手にとっては、おびえる店主にきらりと光るものを手渡した。
「なあ、傭兵って何のことだよ」
ラルフはシェシルの背中に問いかけた。シェシルはちらりと振り返っただけで何も答えない。
「ここに宿をとったんだ」
表通りの一番端、ラルフが昨日の夜、くぐった門のすぐその脇に建てられた宿屋にさっさと入っていってしまった。ラルフは慌ててその入り口に馬をつなげると、シェシルの背中を追った。
「なあ、どういうことだよ」
「黙ってろ」
いつもと同じように受け答えが短い。
「都合が悪くなると、すぐにそう言うんだな」
またシェシルはちらりとラルフを振り返る。その目には諦めにも似た静かで穏やかな感情がふわりと張り付いていた。
「いいから、後で話してやる。それまで待て」
シェシルはカウンターで顔を引きつらせ恐怖に怯えている男と話し始めた。
――穏やかな表情をしていてもこれだもんな……。
やがてシェシルは、鍵とぼろ布に包まれた長い荷物を受け取ると、きしむ階段を上り始める。
「なあ、あのカウンターの奴になんて言ったんだよ」
「私は今気が立っているから、静かにしておいてくれ。それから……」
階段の途中で立ち止まると、下のフロアでまだそわそわしている男に指を突きつけてこう付け足した。
「馬が盗まれないように、裏の厩につなぎ直しておいてくれ」
男は飛び上がって、慌てて入り口の扉をくぐり外に飛び出していった。
ラルフは気の毒にと、怯えまくっていた男の心中を思う。
「それって半分脅迫だよ」
きっとさっきのマスターと同じように、最初は部屋を借りることを断られたに違いない。
「なにをいう、私はちゃんとお願いしたぞ」
失礼なと言わんばかりの口調だ。
――どこがだよ。
シェシルは部屋に入ると、ドアの鍵をすべてかけて、さらに椅子の背をノブの部分に引っ掛けた。自分の荷物と小脇に抱えていた大きな包みを床に放り投げ、自分の剣だけを握って風呂場へと歩いていった。
ラルフが寝台に腰を下ろし部屋を見渡していると、水の流れる音が風呂場から聞こえてきた。
シェシルが借りた部屋は、階段を上がって左に折れたところにある最初の部屋だ。中は意外に広く、ぺらぺらの白い布団が敷いてある寝台がひとつと、机と椅子がひとつずつ置いてあった。足元に敷かれたカーペットは、擦り切れていて、ところどころ板張りの床が見えているのは、この建物が古い証拠だろう。
朝だというのに雨戸はすべて閉じられ、部屋はうす暗い。
ラルフは雨戸を開けようと窓へと近づいたその時、ラルフの背後からシェシルの声が聞こえてきた。
「ラルフ!さっき買った包み、持ってこい」
命令口調にムカッとしたが、インサとの一件があるため逆らうことも口答えもできないような気がした。
大きな包みを持っておずおずと風呂場の戸を開けたが、ラルフはそこでびっくりして包みを落としてしまった。
「な!なな、なんて格好してるんだよ!」
なんとシェシルは裸のまま、戸口のところにもたれかかって立っていたのだ。背後では、蛇口から溢れ出た湯が、浴槽へと流れ出ている。その浴槽からもうもうと上がる湯気が風呂場全体を白く曇らせていたが、それにしたって!
この辺りは、ベチカ山脈の恩恵という湯泉が何箇所も噴出しているのだ。それを引いているため、湯は豊富に使うことが出来る。という説明は今はこの際どうでもよい。
シェシルは慌てふためくラルフを怪訝な表情で見つめる有様だ。
「何やってるんだ?早くそれをあけて、石鹸をこっちに渡せ」
昨日から髪の毛がごわごわでかなわんと、シェシルは平気な顔で髪を掻き揚げながらぼやく。
「う、うん…」
なおもどぎまぎしながら、ラルフは包みの中から石鹸を探り出してシェシルに手渡した。
蛇口から溢れ出る湯で髪を流し石鹸をこすり付けると、とたんに赤黒い泡が流れ出した。シェシルが頭からかぶった返り血が髪にこびりついていたのだ。
湯気が血生臭くなり、風呂場に充満する。シェシルは泡だらけのまま風呂場の窓に手をかけて、半分だけ押し開き、戸口にいたラルフの手元を指差した。
「包みから私の服を出して、そこに置いといてくれ。新しいマントもな」
ラルフが床にしゃがみこんで、再び包みを探ると、一番下から子供用のサイズの服とマントが出てきた。旅用の分厚いなめし皮のブーツもだ。
「お前も早く洗って着替えろよ。じゃないと、あの飯屋のおやじ、中に入れてくれないからな」
シェシルはまだ石鹸でごしごしと髪を洗っている
「……どうして、マスターは断ったりしたの」
「そりゃ、いかにも人を切ってきたって格好してたら、誰だってああ言うだろうよ。それに、血の臭いをかぎつけたごろつきに絡まれる事だってあるんだ。巻き込まれるのは当人たちだけじゃないからな。……私が悪かったんだよ」
「ふうん」
ラルフは裸足になって風呂場に入ると、湯船の上に浮かんでいた桶で湯をすくい、シェシルの髪についた赤黒い泡を洗い流した。
もう一度石鹸で髪を洗い始めると、生臭い匂いは消えて、石鹸についていた本来の花の香りが風呂場を満たし始める。足元に一瞬広がっていた泡が流れ去って、小粒のきれいなタイルがびっしり表れると、もう血の痕跡などどこにもない。