第二章 記憶の傷跡 8

 浴槽のふちに腰をかけたシェシルが、両手を湯につけてぱしゃぱしゃと遊び始めた。
「いい香りだね」
 ラルフはシェシルの髪に指を入れ、泡で揉むようにする。するとまだ下のほうから、頑固に固まっていた血の塊が浮きでてきた。
「ああ、フリージアだ。私の好きな香り」
 気持ちよさそうに目を閉じるシェシルをラルフは笑みを浮かべて見つめた。案外、可愛いことを言う。花の名前なんて知っていること自体がちょっと驚きだ。
 ラルフは丁寧に丁寧にシェシルの髪を洗う。昨日の朝からシェシルはずっとラルフの為に血を浴びていたのだ。本来ならば、自分がかぶるべきもの。そう思うと、ラルフはシェシルに申し訳ないと思ってしまう。

「ちょっと背中向けて」
 髪を洗い終えると、ラルフは壁にかけてあった分厚い布を取って湯に浸し、石鹸をつけて泡立たせ、シェシルの背中にそれを当てた。
 シェシルの背中はびっくりするほど白い、透き通るような滑らかな肌だ。ラルフはシェシルの肌はもともと褐色だと思っていたのだが、どうやらそれは日に焼けて黒くなっていただけらしい。
 鍛えられた体のラインが、女らしい丸い骨格をすっかり覆い隠してしまっている。日に焼けた首筋や腕、背中の美しく白い肌にも、剣で負ったらしき傷跡が無数についていた。
 ――傭兵として戦場にいたから。
 ラルフはシェシルの強さの意味を知った。合点がいったのだ。

 他の大陸ではどうか知らないが、このプリスキラ大陸で傭兵というと、国を失ったものを意味する。戦争で国を失ったもの、自ら国を飛び出したもの、罪を犯したもの。そういったものたちが、生活の糧にと戦場に出る。隣で一緒に飯を食っているものが、報酬次第で明日は敵になるかもしれない。そんな生活だ。自分の腕だけが頼りの過酷な世界。戦場では常に捨て駒として雇われている孤独な存在。
 そんな世界をずっと歩んできたのだろうと、ラルフは傷跡を見つめながら思った。
 金で雇われれば、人殺しもいとわない連中だと思われている。だから、町中の人がシェシルを蔑んだ目で見ていたのか。血にまみれたマントを仕方なく羽織って歩くしかなかっただけなのに。
 ――それも、俺を助けたばかりに。
「ごめんシェシル」
 ラルフは背中に向かってひとつ涙をこぼした。
 言われなき蔑みを受けても、凛と前を向いて歩いていたシェシルがとても輝いて見えた。揺るがない意志がシェシルにはある。
 自分は、もし同じ立場ならそこまで出来るだろうかと自分自身に問うてみたが、答えは否だ。今はまだ。未知数である未来に、自分の姿がそうあれと願わずにいられない。

 シェシルが身じろぎした。
「何か言ったか?」
 いいやと笑顔を浮かべこぼれた涙を拭うと、ラルフは再びシェシルの背中をこすり始める。
「傷跡って、いつついたものとか覚えてるの?」
 ラルフはそっとシェシルの顔色を伺った。シェシルはじっと目を閉じ、背中をこすられるのに任せていた。ほんの少しの時間が流れて、ポツリとシェシルが言う。

「一つしか覚えがない」
「一つ?」
「背中の……一番大きな傷」
 ラルフが石鹸の泡を手で拭うと、赤く盛り上がった大きく長い傷跡が現れた。思わずその傷跡に指先を添える。
 淡々と言葉はつながれていく。
「父と母が殺されたときに、一緒に受けた傷だ」
 ラルフの指先がびくりと震えた。
 ――殺された……?
「今でも、痛むの?」
 その傷は、他の傷跡とは違っていた。生々しいほど大きく割れ、傷の周囲の皮膚が黒く変色し引きつっている。今でも血を流しそうな、そんな深い傷跡だ。この傷を負ったとき、シェシルは生死を彷徨ったことだろう。
「自分が意思に反して殺しをしたときに疼くことがある」
 意思に反する殺しという意味が、ラルフには分からない。兵士をいとも簡単に切って捨て、その後もごみのように森へと投げ込んだシェシルの横顔を思い出す。しかし、そんなことは怖くてきけない。
「どうして……殺されたの…」
 シェシルはため息をつくと、それまで閉じていた瞳を薄っすらと開き、半分だけ開けられた風呂場の窓の外に広がる、うす曇りの空を仰ぎ見た。


 シェシルはゆっくりと語り始めた。今まで長いことそんな話をしていないというように、ゆっくりと思い出に浸りながら。

「私はコドリスのルシオンテの産でね。ほら、知ってるか?コドリスで一番高いパルトアガタ山とコドル山脈のドルテナ山に挟まれた谷間の小さな村だよ」
「知ってる」とラルフはうなずいた。
「パルトアガタとドルテナから宝石を採掘している村だよね」
 最高品質のブルーペクトライトを掘り出している有名な村だ。
「ああ、今の村は十年前に再建された村だ。私が住んでいたのはその前、そこで私の父は刀鍛冶をしていたんだ」
 へえっ、とラルフは感嘆の声を上げた。ルシオンテ村の刀鍛冶といえば、ラルフでも知っているほど大陸全土にその名を知られている名工だ。門外不出の製鉄技術と、上質の宝石を使った高度な宝飾技術を併せ持った名刀を作り出すといわれている。作り出された剣は、それこそ国宝級。一般の兵士は握ることはおろか、拝むこともできないほどだ。
「私には歳の離れた姉さんがいたけど、物心ついたときにはもうコドリスの王都ベガンダスに働きに出ていた。そして、あれは……私が十歳の時、ノベリアの軍が、国境を越えて村にやってきたんだ」

 再びその双眸を閉じると、握りこぶしをひざの上に置き、そのまぶたに情景を思い出すように、シェシルは何度も何度もうなずいている。
「ノベリアの軍は、小さな村の貧しい小さな家の中をめちゃめちゃに破壊してから男をどこへ隠したのかとたずねた」
「男?」
「……ああ、国境を不法に越えてコドリスに進入した罪人だと言っていた。かくまうと、お前たちも同罪だと。だけど、村人が知らないと言うと、やつら……、村人を一人ずつ広場に連れ出して殺し始めたんだ」
 シェシルの両手が硬く硬く握り締められる。
「かくまっているとろくなことなどないぞと脅していた。だけど、村人の誰もそんな男は知らなかった。
 父が広場の中央に引っ張り出されたとき、母は泣き叫んでいた。私はその姿を、家の中の小さな窓から見ていたよ。父は、男は村を出て王都に向かったと言った。もちろんうそだ。
 そして、殺された」
「酷い!」
 ラルフはシェシルの身に起こった出来事と、自分の村に起こった出来事を重ね合わせていた。シェシルは苦笑する。
「ノベリアの本当の目的は、ルシオンテに伝わる製鉄技術を奪うことだったんだよ。
 その製法で作り出された鉄は、ガウリアンといって、とてつもなく硬くそしてしなやかなんだ。まるで錬金術のようだと称されるほどにね。それで打たれ砥がれた刃には、独特の波模様が浮き上がって、独特の光を放つんだ。
 ノベリアは製鉄技術が未熟な国だ。大きな戦争が起きる前に、寿命の長い武器を作りたかったのだろう。コドリスの武器はそのガウリアン、もしくはそれに近い技法で作られていて、頑丈で威力も強力だったから。
 罪人の男の話は最初からでっち上げられたものだったんだよ。ノベリア軍は、村人を追い掛け回し、次々と家に火をつけて、村を焼き払ったんだ」
 シェシルの声がだんだんと小さくなってくる。ラルフの目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。