第二章 記憶の傷跡 9

「いまでも、父の最後の姿や、私をかばって殺された母の夢を見る。
 自分の背から流れ出るおびただしい血に怯えながら、燃え盛る炎の中で、父が残した、最後の作品になった長剣二本を抱えて、小さくうずくまっていた自分を思い出すんだ。
 大きな手が私を抱え上げて、村から連れ去ったその時の恐怖は、今でも忘れない。
 背中の傷がうずくのは、その事を忘れさせないためだと、私は思っている」
 ラルフはシェシルの震えている手を、できるだけ見ないように背中をこすっていた。石鹸の泡は優しくふわふわと膨らんで、その内へと優しく傷跡を隠してしまう。そうしないと、シェシルの心の疼きがいつまでも治まらないのだと知っているかのように。
「私をルシオンテから連れ出したノベリアの兵士はね、自分の生まれ故郷の村に私を預けたんだ。兵士は私をそこで介抱すると、すぐにカリシアへと引き戻されてしまった。
 私を連れ帰ったことで、その兵士は厳しい処罰を受け、短い期間だが投獄されていたと聞いた。なのに、その兵士は元来お人好しだった様で、いつでもなんでもない顔をして故郷に帰ってくると、私を笑顔で抱きしめてくれたんだ」
 シェシルの暖かな思い出があふれ出してくる。
「村の人たちもその兵士と同様にお人好しばかりで、身寄りのなくなった私に皆親切にしてくれた。
 だけど……」
 そしてまたシェシルの語尾が曇る。

「だけどね、私の身のうちに灯った憎しみは、どうしようもなく膨らんでいったんだよ。きっとその兵士も、親切だった村人もみんな、私にそれを望んだんじゃないのは分かっていたけど、それでも私は、自分の故郷を焼き払った、両親を殺された、そのやり場のない憎しみを抑えることができなかった。
 私は、もうその村にいる事はできない。もうこれ以上自分の大切な人が傷つくのを見たくなかったから。何よりも、憎しみを抱いた私の姿を見て欲しくなかったから。
 その思いだけで村を飛び出して、流浪の旅を続け、国籍を失っていた私は、いつの間にか傭兵という身分になっていたんだ」
 ふふっ、とシェシルが悲しそうに笑い、傷跡の残る両手を広げて顔の前に掲げた。
「気が付いたら、両親を殺したあの兵士たちのように、どす黒い血にまみれて、もうどうにも拭い去れない罪につかりきった体になっていたんだよ。
 そうやって、私のような子供を生み出してしまう原因にも、加担することにもなってしまった。
 私はね、結局、行き場のない憎しみを他人の命で晴らそうとした。それが生きるため、自分の命をつなぐため。言い訳なんてすべて白々しい」
 ――シェシルは自分を恥じているんだ。両親と共に死ななかった自分を。
 彷徨いの森で、ラルフは自分も感じた罪悪感を思い出した。
「でも、俺のことを助けてくれたじゃないか。彷徨いの森から連れだしてくれたのは、結局シェシルなんだよ」
 絶望から救ってくれた言葉をラルフは忘れていない。暖かく包んでくれたぬくもりは今でも感じていた。もし、もしもあの時、シェシルと出会わなければ、ラルフはもしかしたら死を選んでいたかもしれない。
 シェシルは力なく首を横に振ると、苦笑しながら言った。「それは買いかぶりすぎだ」と。
「……そんなこと…」
 ラルフは言葉を失う。

 ラルフは沈黙が一瞬流れた後、気を取り直して聞いてみる。
「その、介抱してもらった村の思い出は、いい思い出?」
 その言葉を聞いたシェシルは、ふとラルフと視線を合わせる。その目には、なんともいえない穏やかな優しい光がゆらゆらと漂っていた。
「正直言うとね、私はその村から出て行きたくはなかったんだ。それでも、自分の唯一の支えを失っても、憎しみは消えることはないと知っていたから。
 私とその村との接点は、その剣一本。私は父の残した形見の剣の片割れを、村に残して出ていったんだ。そは、私を助けてくれた男に使ってくれと村人に託してね」
 風呂場の壁際に、脱ぎ散らかした服が丸まっている傍らに、その見事な装飾を施したシェシルの長剣は凛とした輝きを放って立てかけられていた。ラルフはシェシルから離れてその長剣の前に立つ。見れば見るほど美しい形をしている剣だ。

「ラルフ、お前の剣をその横に立ててみろ」
 ラルフがおとなしく部屋から戻ってきて、皮製の鞘からそれを引き抜いたとき、どうして今まで何も気が付かなかったのだろうと、そのことの方が驚きだった。
 カタンという音を立てて改めて並んだ二本の長剣は、驚くほどその形が似ていたのだ。
 ラルフの剣の装飾は最小限に抑えられているように見えるが、実はブルーペクトライトの石をはめ込んだシルバーの台座には、細かい彫刻でアラベスク模様が刻まれているし、鍔元から剣先に向かって一直線に掘り込まれた溝は、シェシルの剣にも見られた。翼のように広がる鍔の表面にも、薄っすらと空想上の神獣の姿が、まるで生きているかのように躍動的に踊るように掘り込まれていた。長さもまったく同じ。
 そして、それよりも何よりも、この二つが決定的に同じ作り手のものだと分かるものが刀身にある。
「お前のものは、とてもきれいに手入れされている」
 シェシルも立ち上がると、その二本の剣の前に立つ。
「この文字……」
 ラルフの剣には黒文字で、シェシルの剣には金色の文字で、同じところに彫られた同じ文字、同じ言葉。

 『Stable will』

「古代文字だよ。意味は揺るぎない意志。お前の剣の名前はこの台座の下に小さく彫られている――Beat of peaceful――静謐(せいひつ)なる鼓動」
 シェシルの指が、ラルフの剣の刀身を撫でる。
「私の剣の名は、刀身に大きく入っているから、馬鹿に目立ってしょうがないんだ。――Justice of bloody――血塗られた正義だ。最初の言葉が妙に目立つんで、私のことをジャスティスと呼ぶ連中もいる」
 まったく迷惑な話だよと、自分の剣を握って、もう一面の刀身を見せた。そちら側に大きく剣の名が刻まれている。
 ――揺るぎない意志。
 ラルフは偶然自分がシェシルに対して抱いていた思いを、形にしてあらわしている文字に見入った。
 まさに、その言葉通り、どんなものにも流されない意志で、シェシルは歩み続けているのだ。
 シェシルが剣の刃を動かす度に、反射した日の光が目に染みる。
 シェシルをルシオンテ村から連れ帰り命を助けたのは、間違いなくノリスだ。――静謐なる鼓動――に万人の平和、故郷の安らぎを誓い守ろうとして、人を傷つけその矛盾に苦しんでいたノリスの心中を思う。
 ノリスはテルテオに帰ってきてから一度も剣を握らなかった。刃をつぶした飾りの剣で踊る鎮魂の舞ですら、村人からどんなに頼まれても踊ることはなかった。

 ――もう私は、剣を握る資格はない。
 ノベリア軍の襲撃にあったあの時、ノリスが言っていた、自分を恥じているような言葉を思い出した。でも今、この剣を見ていてノリスが恥じているものの先にシェシルの存在があったことに、ラルフは気が付いたのだ。
 助けてもなお、消え去りはしなかった憎しみを抱えるシェシルへの贖罪(しょくざい)の想い。そして、自分の前から姿を消した少女を引き止めることも、抱き寄せることもできなかった悔しさ。
 ノリスの別れ際の言葉が、今になって大きく胸に突き刺さる。
 ――強くなれ!ジェイを奪い返しにいってこい!
 本当は自分がそうしたかったはずだ。消えたシェシルを……。
 そうかと納得する一方、この痛々しいまでの現実を前に、ラルフは戸惑いを隠すことはできなかった。
「シェシル、だけどノリスは……」
 ラルフの語尾が震える。
 彷徨いの森の中で、この剣を、ノリスとの思い出そのもののような剣を握って、悲しい孤独な鎮魂の舞を踊っていたシェシルが思い出された。あの時、自分は確かに胸が締め付けられるような悲しみをシェシルから感じていたのだ。
 テルテオの襲撃の場に自分がいたならと、自らを責めていた、そして謝っていたシェシル。なぜ、彷徨いの森にいたのか、その本当の理由。
 ジェフティを心から大切に思った、その感情を知った今のラルフだから、理解できたことなのかもしれない。十年以上もの月日を間離れ離れになりながら、たった二本一対の長剣のみで絆をつなぎとめていた二人。まるで自分のラピスラズリのピアスのようだ。

 でも、シェシルの元へはノリスではなくこの長剣だけが戻ってきた現実。
 ラルフの涙の溜まった目を見つめて、もう何も言うなというように、シェシルはほんの少し笑う。
「この剣がここにあるっていうことは、それがどういうことかわかっている」
 ふいっと顔を背けると、シェシルは浴槽に入って体を沈め、ざばざばと頭から湯をかけ始めた。
 流れ落ちる湯に、あふれ出る悲しみが混じっていることに気が付いたラルフは、そっと風呂場からでて、床に広げたままになっている荷物の傍らにしゃがみこんだ。シェシルはけしてノリスを憎んだのではなかったのだろう。自ら離れ離れになる道を選ばなくてはならなかった自分の運命に、憎しみを抱いたのではなかったか。

 ふと、その時、シェシルのぽそりと小さな声が聞こえた。
「お前の事も見たことあるんだ。まだ小さな赤ん坊だったが。森の中で、川を流れてくるお前を拾ったときは、その赤ん坊だとは気が付かなかったが。……泣き顔がな。その頃と変わってなかった」
「……そう、なんだ」
 だから、シェシルは助けようという気になったのだろうか。
「ねえ、シェシルもテルテオを出るとき泣いた?」
 新しい洋服にもぞもぞと着替えているシェシルに向かってたずねてみる。
「そんなわけないだろ」
 口元をゆがめて鼻で笑われたが、それは嘘だとすぐに気が付いてしまう。泣かなかったなんてありえない。そうでなければ、あの時、彷徨いの森で泣いていたラルフに――泣くのなら、我慢はしちゃいけない――なんていうことはできないはずだ。

「くだらないことをごちゃごちゃ言ってないで、お前もさっさと汚れを落とせ。
 腹が減って仕方がない。まったく!言っておくがな、お前が昨日旨い飯を食ってのんきに眠っている間、私はずっと馬に乗って歩き続けてたんだぞ」
 申し訳ないとは思うが、町にたどり着くのに朝までかかってしまったのはラルフのせいではない。と思ったが口には出さないようここは自重する。
 雫の垂れるシェシルの短い髪が、重たいシルバーの光を放ち、浅黒い顔の輪郭を浮き上がらせていた。
 ――剣さえ握らず、口も開かず、ただ笑っていたら相当の美人なのにな。
 ラルフはシェシルに笑顔を見せると、入れ替わりに風呂場に入り戸を閉めた。
「おいラルフ。私の服とマント洗っておけよ」
「何でだよ!」
 ラルフは服を脱ぎながら目の前に散らばったままのシェシルの服を見つめた。
「当たり前だ。そんなに汚れたのはお前の責任だからな。ついでに言うと、荷物を盗まれそうになったのもお前の責任」
「もう、いいだろう…、悪かったと思ってるよ。でも珍しいな。今日はやけにおしゃべりじゃないか」
「うるさい黙れ!」
 風呂場の戸に、何かが投げつけられてぶつかる音がした。

 新しいマントに身を包み、表通りを歩くラルフたちを、もう誰も不審な目で見なくなった。
「さっきはありがとう!」
 と、洋服やら石鹸やらを購入した店の主人も笑顔で語りかけてくる。
 怪訝な表情をするラルフにシェシルは苦笑した。
「人なんて、そんなもんなのさ。見た目が傭兵じゃなかったら、中身は変わっていなくたって本質はもう見えやしない」
 アフィシオンの店主マスターブリッシュも、さっきとはうって変わって涼しい顔で二人を店に迎え入れた。

 多分これから辛いことはたくさん起こる。このままいつまでシェシルと共に行動できるか分からない。
 きっといつか、別れは必ずやってくるのだから。ジェフティを取り戻す自分の目標に、シェシルが付き合ってくれるつもりでいるのか、そんなこともまだ想像もつかなかった。
 だけど、今はこのままで、もう少し自分が成長する姿をシェシルに見届けてもらおう。またそんなことを言うと、ごちゃごちゃ言うなといいながら、シェシルは照れるだろうが。
 ラルフは、その照れて可愛い仕草を見せるシェシルを想像して、思わず笑みがこぼれた。

第二章 記憶の傷跡 END
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