第三章 変心の夜更け 1

■3-1 疼く疑心

 テルテオ村の後始末を、連れてきた幾人かの部下に言い渡し、アスベリアはザムラス国王の住む王都カリシアに引き返す道を進軍していた。とはいっても、テルテオはカリシアからもっとも遠く離れている村のため、カリシアまでの岐路は一ヶ月以上を要する。
 アスベリアはまず十日間かけて、テルテオから南西に位置するサンダバトナを目指し、そこで休息をとった後、さらに西の第二都市オルバーに入ることにしていた。
 オルバーは、ザムラス国王の弟王クレテ公が領主を勤める湖上の水上都市だ。ノベリアの国土のほぼ中央に位置している。大きなカルデラ湖の中心の隆起した島の部分上に大きな城が建っていて、その中に街がそっくり入っているのだ。その白く輝く荘厳な姿はノベリアの威厳と讃えられている。
 先々王のイルガナートの頃まで国王の居城だったのだが、大陸外への貿易を重んじたイルガナート国王が、今は第三都市となっている大陸最西端アッズバイナーの港の傍に王都を移した。それが今のカリシアというわけだ。

 あまりオルバーに長居はしたくない、とアスベリアは思う。クレテ公は貴族階級意識が強く、平民出身の軍幹部を、うとましく思っている節がある。
 ――醜く太った肉塊ごときが。
 クレテ公の、平民出身の自分を軽蔑した冷ややかな視線を思い出し、心の中でののしった。
 女狂でも有名な公は、城の奥に贅の限りを尽くした宮殿を作り、そこに気に入りの女たちを閉じ込めているのだという噂だ。
 ――まったく、この財政難のご時世に……。

 オルバーの南西、馬の足で一週間ところ、南の砂漠の国デナルとの国の境に、アスベリアの小さな統治領アカヤがある。オルバーで一日二日兵士を休ませたら、すぐにでもアカヤへ帰りつもりでいた。
「逃げ出した村人がいるはずだ。村の周辺を探索し、見つけ次第速やかに始末しろ」
 テルテオの村を出て森を抜けたところで、周囲の探索をさせる隊を分けた。
「十日ほどこの辺り、そしてコドリス側の国境付近も捜せ。テルテオは森の民だ。山に精通しているだろうから気を抜くなよ」
 真実を知るものは、誰であっても生かしておくなとのザムラス国王からの命令だ。
――それが、あのノリス=ペルノーズの故郷であったとしても。

 アスベリアは、もう十年も前から一緒に戦場を駆け巡ったノリスの姿を思い浮かべた。
 ザムラス国王の御世になってからというもの、自分たち兵士には休まるときなどなかったように思う。
 王都カリシアの南に位置するエジバドガの攻略。四十年前から続く南西の大陸半島の国、オスベラスへの侵略とそのために次々と起きた内乱の鎮圧、そしてシンパをめぐるコドリスとの戦い。
 そのどれもにノリスの姿があり、そして自分が常に寄り添うように横にいた。絶対に勝てるという安心感を、ノリスはアスベリアに約束してくれる。そんな存在だったのだ。

 普段のノリスは陽気で朗らかな男だった。子供好きで、自身も子供のようにはしゃぎ笑う。魅力的でもあり、その優しさで自分を傷つけ追い込んでもいた。
 ――あいつは、剣を握るべきではなかったのかもしれんな。
 いつだったか、一面焼け野原になった戦場のぬかるみに突っ伏し、小さな子供のように泣きじゃくるノリスの姿を見かけたことがあった。その姿を見たベラス=ナズラ上将軍が、アスベリアの肩に手を置いて痛々しそうに顔をゆがめてつぶやいたのだ。
 しかし一旦戦場に出ると、誰もが恐れる鬼神となり、何者も寄せつけない強さで勝利を次々と手にした。そしてまた泣くのだ、子供のように。
 その痛みも、苦しみも、罪の重さも、すべてあの村を守るため。身を切るような悲しみに、息もできないほど苦しんでも、それでも愛し守りたかったあの土地が、たった数時間で焦土と化す。砂の城のような脆弱さ。

――心の弱い人間の命など、はかなく脆いものなのだ。

 アスベリアはノリスの農夫の姿を思い出し、口元をゆがめた。一番望んでいた、一番幸せだった時にあいつは逝ったのだ。そのことを、アスベリアはうらやましいとさえ思うのだった。
「何を思っていたのですか?」
 ふと、馬車の中にしつらえられた籠の中で、王への土産の品が口をきいた。
 アスベリアは追憶の世界から一気に現実へと戻ってくると、口元を引き締め目の前の籠を凝視した。

 アスベリアが乗っているのは、馬が四頭で引く黒塗りの大きな馬車だ。内は、ドア手前の半分に黒革張りのソファーと四角く小さなテーブルがしつらえられ、半分を籠で仕切っている。アスベリアは自分が見張り役にもなれるように、このような室内を作らせたのだ。食事を取るときも籠の前に座り、夜寝る時もソファーで横になっている。
 大きな籠も、アスベリアが巫女姫を捕らえて入れるように特別にしつらえたものだ。中は羽毛の柔らかいクッションを敷き詰め、狭いながらも快適に過ごせるようにと配慮している。小さな明かり取りの窓はガラスがはめ込まれ、小さい視界ではあったが外がのぞけるようになっている。
 巫女姫は村を出たとたんに泣き止み、それ以来ずっとアスベリアを見つめている。
 ――なんだ、この子供っぽさの微塵も感じられない態度は。
 この子供は薄気味が悪いと、テルテオを出発して以来ずっと思っていた。籠の中から、言い知れぬ威圧と、こちらの心の内を見つめられているような、胸の奥がちりちりとしびれるような感触すらする。
 ――いつまでも泣かれていたら、こっちの身がもたないか。
 ありがたいとでも思ったほうがいいのかもしれないなと、アスベリアは改めて思い直すことにしたのだった。

「いえ、特に。何かを感じられたのですか?」
 アスベリアは勤めて冷静に振舞おうとした。なにせ、伝説にも登場する神の使い、五百年に一人の存在だ。どんな能力を持っているかも分からない。
「懐かしさと、寂しさが」
 アスベリアはふっと笑った。なるほど、そう読めるのかと。
「さぞかし、満足なのでしょうね」
 妙に大人びた口調だ。
 初めて捕らえられたときのあの泣き叫びようなど、もう微塵もない。アスベリアはわざと破顔した笑みを籠のほうへと向け、手にしていた酒の入っていたグラスを持ち上げた。
「ええ、私にとって王のご命令は絶対ですから」
 その言葉を聞いた巫女姫は、籠の中でくすりと笑った。かすかに鈴を転がしたような笑い声。よくもそんな戯言をと言わんばかりだ。

 酒を口に含むと、芳醇な果実の香りが鼻へと突き抜ける。りんごを主原料とした、ベリドル産の強い酒。琥珀色の滑らかな液体が、薄いグラスの中を踊っていた。
 自分も、このグラスの中の酒のように、ゆらゆらと人生の中を漂っているだけではないか。そう思ってしまう。
 今日は、この強い酒が体に回るのが早い気がする。お前はこの酒に酔うように、王の手の内にいるがいいと、自分の体が言っているのか。
 運命とは一体何か。自分の人生はもう最後まで決まっているのだろうか。釈然としない想いばかりを抱え、ただ、毎日を繰り返している。本当にそれでいいのか。
 その運命とやらに、生まれたときから縛られている少女がいる。アスベリアは目の前の籠を見つめた。

 ソファーに体を投げ出し、長い足をはみ出してだらしなく横たわった。首を絞めていた軍服の襟のボタンを外し、中のシャツのボタンまで外すと、やっと息がつけたとばかりにため息を吐き出す。グラスの中に残っていた酒を一気にあおった。
 ――いいさ、ここには口うるさいお目付け役はいないのだから。
 軍人の品位とは!国民の手本に!領主とは格あるもの!もう、耳の奥にこべりついているほど何度も聴かされた侍従長の声がまたも聞こえてくる。しつこい幻聴だ。

 大人びた口調は、少女が自分を守るためにわざと口にしているに違いない。心細くないはずはないのだ。
 世界の均衡の為に生まれた少女。悪魔と同じアメジストの瞳を持つ神の使い人。何のためにそのような存在が必要なのか。
 ――悪魔なんて見たことないから。
 その伝承が確かなのかどうなのか分からない。そもそも悪魔なんて存在するのか。神という存在すら、アスベリアには疑わしい。
 この世にただ一人。生れ落ちた瞬間から世界の均衡を保つために命をささげなくてはならない運命を背負う存在。
 そんなものの為に、ひとつしかない自分の命を差し出せるものなのか。
 世界でただ一人の巫女姫。先代の巫女姫の死後、最初に生まれたディルーベスの一族の一人がその力を引き継ぐとされている。それもこの巫女姫は歴代の姫たちの中でも特別な力を持つとされる、五百年期に生まれた巫女。
 ザムラス国王は、隣国コドリスが巫女姫を狙っていると思っているのだ。ディルーベスの集落が戦渦に巻き込まれ壊滅したのも、ただの偶然ではなく、その混乱に乗じて巫女姫を奪おうとしたのではないかと。
「私を手にしたところで、戦争が終わるわけではないわ」
「……ああ、その通りだ」
 彼女は分かっている。こんな幼い少女でさえそのことに気が付いているのだ。争いは、人の心が生み出すもの。疑心と欺瞞(ぎまん)と偽りと裏切りが、憎しみを凌駕(りょうが)して命の削り合いへと人間を駆り立てていく。
 巫女姫を手に入れたとしても、領土の拡大を企む両国の折り合いがつかなければ、戦争が終結することはないだろう。
 シンパ国を巡る争いも、まだ水面下ではくすぶっているような状態だ。ザムラス国王は今でもシンパを取り戻し、ルステラン王家のイザフス帝の機嫌を取りたいと思っているのだ。
 南部の四国同盟もどう動くか知れないし、オスベラス領の内紛もまだまだ鎮圧されたとはいえない状況なのだ。
 争いはこれから先もなくならない。それならば自分はどうあるべきなのか。アスベリアはソファーの上でまどろみながら、一瞬湧き上がった心の底の思いを掴み取ろうと手を伸ばした。