第三章 変心の夜更け 2
馬車の車輪が、道の小石を踏んだだけで左右にごとごとと音を立てて揺れ、馬車を支える車軸がぎしぎしと騒々しく、気持ちをもやもやとかき立てる音を発し続けている。
国王軍の進軍は続き、アスベリアは草原地帯を抜けてサンダバトナに入った。サンダバトナはノベリアの穀倉地帯として発展し、街の外には、農場や果樹園、牧場が広い範囲にわたって拡大していた。
街の中央には荘厳な大聖堂の塔がそびえ、周囲を商業施設がぐるりと取り囲んでいる。そのほとんどが、穀倉地帯で収穫した野菜や穀物、肉類などを地方から仕入れに来た商人や、管理をしている役所などの建物だ。また、この辺りは貴族たちがのどかな避暑地として利用するため、別邸などが建てられている。
街の外周部分には、ノベリア軍の駐留施設が建ち、この街がノベリアにとって重要な位置付けにあることをしめしていた。
ラドナスとは比べものにならないほどの立派な石組みの堅牢な壁が街を取り囲み、その側面の大きな門は重々しい鉄でできている。その門は、毎日朝晩、壁の脇に取り付けられている巨大なハンドルを、街を警護するノベリア軍の兵士が二十人がかりで回し、開閉を行わなくてはならない。サンダバトナの黒門は、まるで国王住まう城門のごとき厳容と称され、見たものを圧倒するような威烈を放っていた。
その大きくそびえる門に続く傾斜した坂を上り、アスベリアの軍はサンダバトナの街の中に入った。アスベリアが乗っている馬車の外では、門の警護につく兵士たちとアスベリアの軍の兵士たちがなにやら談笑しているのが聞こえてくる。馬車はアスベリアの指示通り、止まることなく軍の駐留施設の中へと入っていった。
背後で、重々しく駐留施設の門が閉められた音がし、周囲の雑音がそれによって締め出され、辺りはとたんに静まり返る。
ここは街の端とはいえ、時には国政を話し合う重要な場所であり、おいそれと街の住民が踏み入ることができる場所ではないのだ。そのため、軍施設は街からある程度の距離を保ち、壁で囲われた中に建てられていた。その区域の門が閉められたということは、中にいる人間は完全に街の喧騒から隔絶され、さらに城壁のごとき分厚い壁に守られ、奇襲にあう心配がまずないだろうという安堵感に包まれるのだ。
アスベリアも、ここまでの十日間の道のりを、無事何事もなく乗り切ったことにほっとした。
馬車が一層軋んだ音を立ててゴトリと止まり、外で馬の鼻息がブルルルと鳴く。まるで一仕事終えて褒美が欲しいと言っているかようだ。
アスベリアがジェフティの手をとり、馬車から降ろすと、背後から男がゆっくりと近づいてきた。
「お疲れになられましたか?」
男は微笑んで少女の顔を覗き込んだ。
優しげな面立ちの、穏やかな話し方をする初老の男である。厳しい戦場を生き抜いたもの特有の、人を寄せ付けないような雰囲気は感じられない。その白髪と同じように歳を重ね白くなってしまった口元を覆うひげが、その男の人生の気鬱も侘しさも、虚労ですら覆い隠してしまったかのようだった。目じりに刻まれた深いしわが、男が重ねた年月の長さを感じさせる。一見しただけでは、その男が人生の大半を戦場で過ごしていた兵士だとはとても思えない。
義足をつけた片足を引きずりながら近づいてきたその男に、アスベリアは少女を預ける。
「エド、巫女姫を頼む。外には出さないよう閉じ込めておかなくてはならないが、できるだけ快適に過ごせるよう取り計らってくれ」
男は何のためらいもなく少女の手を取り、アスベリアにも笑みを向けた。
エドと呼ばれたその初老の男は、アスベリアの身辺の世話をするために雇われている元兵士だ。まだアスベリアが一介の下級兵だった頃から、エドには世話になっていたが、階級が逆転してからも世話係として自分についてもらっている。今では主従の関係であるが、昔は戦場で命を助けられた恩もアスベリアはエドに対して少なからず感じていた。
「仰せのままに。アスベリア様がここ数日でお戻りになると思い、兵士たちの寝床も準備してございます。本日は兵士たちに労いを?」
アスベリアはテルテオに向かう前、エドをここサンダバトナに残し、戻ってきたときの準備や、ここからオルバーまでの道中必要になる物資の調達を信任していた。
「無論だ、エド。今日は宿舎に酒と旨い料理を存分に用意してやってくれ。ここ一ヶ月間、気の休まるときはなかったからな。ここにいる三日間は、羽目を外さぬ程度に羽を伸ばすよう伝えてくれ」
アスベリアは、エドに手を引かれて遠ざかっていく巫女姫の後姿を、建物の中へ消えるまで見つめていた。建物の中へ消えるその一瞬、少女のアメジストの瞳がアスベリアの姿を捉えたが、その色が何を意味していたのかはアスベリアにはわからなかった。ただ、ひどく懐かしいという感情がふと、心を微風のように掠めた気がして、アスベリアは頭上に広がる青空を見上げた。
簡素なしつらえの部屋だ。アスベリアは相変わらず自分の待遇の向上のなさにため息を吐く。これでも自分は血を吐くような努力で、今のこの地位まで昇ってきたつもりだ。少将といえば、馬上の騎士として国民の羨望の的として見られている存在のはず。それなのに、この扱いはどうだ。
エドが部屋を選べるはずはない。国王軍の駐留には、王都の軍本体の指示が介入する。アスベリアにこの部屋を与えたのは、間違いなく上層部の指示なのだ。
――一体、いつまでこうしていればいいのだ。
壁紙も張られていない薄汚れた灰色の壁が取り囲んだ、圧迫感を覚えるような空間。
床はむき出しの石材で、壁と同じく灰色をしている。床だけ見ていればここが牢獄だと思っても間違いではないような、すべてを排除しきった愛想のない空虚な雰囲気が漂っている。
壁際に寄せられたベットは、熟睡なんて最初からするなといわんばかりの粗末なもので、薄い布団が申し訳なさ程度に敷かれているのみだった。
唯一、ここが牢獄ではないと理解するに足るものが、部屋の片隅にこじんまりとすえつけられている。酒のビンが三本とグラスが六個置かれただけの傷だらけのテーブル。
そして、窓際に寄せるようにして向かい合っているソファーが二つ。そのソファーも、クッションが擦り切れて中の詰め物が端からはみ出しているし、優美な曲線を描く形を有しながらも、ソファーの座面は長年の汚れが堆積し、表面の模様はすでにその中に没してしまっていた。
アスベリアは、戸口に据え付けられている剣を立てる台へと近づくと、自分の剣を腰から外してそこへ立てかけた。こんなものに剣を預けられるとは、なんとも悠長な場所ではないか。
星を抱えた蛇をあしらった紋章を、銀糸で刺繍してある紺色のマントを肩から外すと、くしゃくしゃと丸めて窓際のソファーに向かって投げつけた。それはうまいこと丸まったまま、クッションの脇に収まり、まるでいじけたように静かにうずくまる犬のようだ。
いくつか置かれている酒瓶の中から、赤ぶどうが原料の酒をグラスに注ぐと、それを手にしたまま窓際に置かれたソファーにどさりと座り込んだ。
グラスの中の血のように赤い酒がゆらゆらと揺れ、そこに写るアスベリアの端正な顔立ちをゆがめさせる。
窓から切り取られた空を見やると、夕刻の情熱的なルビー色の雲がたなびき、夜の気配忍び寄るサファイアブルーの中へと、その情熱を置き去ろうかといているかのように一線延びていた。
こういう色をした夕刻は、郷愁が胸をよぎるものだ。
短くため息を吐いた。その郷思こそが彼の罪。
――きっとあの双眸を見たからだ。
アスベリアはジェフティのアメジストに輝く美しい瞳を思い出した。
物語に聞く、悪魔の特徴と酷似した瞳の色。奥底にうごめく罪が抉り出され、お前はその罪ゆえに地獄の業火に焼かれるがよいといわんばかりに、それは光り輝いていた。
――あの色が、今、オレを惑わせているのか。
頭を振ってその思いを消し去ろうとする。しかし、体の奥底から郷思が沸きあがってくることは抑えることができなかった。いつしか自分の心の沼地に一歩一歩近づき、沼地から溢れた水が彼の足元をぬらしていた。
――アス……。
沼地の向こうから、可憐な声音が聞こえてくる。水面をすべる水鳥のように、するすると渡る風のように、その声はアスベリアの体をそっと包み込んだ。
雨に濡れたうなじの白さが、唇のぬくもりが、小鳥のような微かな震えが、その存在が幻ではなかったことをアスベリアに思い出させる。
ソファーの背もたれに身を預けてその光景を思い出し、その時心に刻んだ誓いを再びその手についた鮮血で書き記す。
――オレはけして許されることはない――と。許しを請うべき人は、もうこの世にはいない。