第三章 変心の夜更け 3

 物音がした。アスベリアはふっと目を開ける。いつの間にか眠っていたようで、周囲は暗く帳が下りていた。部屋にはランプに火が灯され、彼の眠りを妨げないよう小さく絞った明かりで、その空間の形を浮かび上がらせていた。
 空に浮かぶ二つの月が赤い光りを放ち、周りを彩る星々が銀色の寒々とした針のような痛さを撒き散らしていた。窓から差し込むその光りが、アスベリアの横顔を微かに照らし物憂げに細めたキャメルブラウンの瞳に吸い込まれていく。

 再び音がする。耳をすますと、どうやら兵士たちが酒を酌み交わして談笑しているようだ。今日はこの敷地内から出ることは許してはいない。この敷地の外の町には、兵士たちにもなじみの女がいるだろうが、今は巫女姫の事もあり施設の門は硬く閉ざしている。二日後の出発のときまで、その門を開けるつもりはなかった。

 自分の手からいつの間にかテーブルへと移動したグラスを再び持ち上げ、一口すする。
 ――エドだな。
 アスベリアはふっと微笑した。酒だけはエドがこの部屋に持ち込んだらしい。彼が好むベリドル産の、少しまろみのあるぶどう酒の香りが心地よく口から鼻へと立ち上った。
 ランプに火を灯したのも、グラスを移動したのも彼だろう。アスベリアはエドの忠義をありがたいと思いつつも、居心地の悪さを感じていた。

 エドに戦場で命を助けられたことが何度もあった。彼はああ見えても歴戦の勇であり、本来ならば今頃隠居をして故郷でのんびり暮らせるだけの恩賞を与えられて当然なのだ。それをこうやってアスベリアの傍で、過ごしているのには、彼なりの理由があった。
 エドには一人息子がいる。詳しくは知らないのだが、亡くした女房の忘れ形見なのだと聞いたことがある。その息子が王都で仕事を探しているという相談を受けたとき、アスベリアはその紹介のために推薦状を書いてやったのだ。息子が自分と同じ軍人の道を歩まないようにしてやってほしい。それがエドの望みだった。
 国王軍の兵士といえど、身内の仕事が苦労せずに探せるという保証はなかった。昨今、難民が王都になだれ込むようになり、情勢は不安定で、王都に住まう民ですら仕事が見つからない状態が続いていた。
 エドの息子はアスベリアの推薦状と、彼が密かに裏で話をつけたおかげで、王都の富裕層の子息があずけられている寄宿学校の教師の職につくことが出来た。今は、オルバーにいるはずだ。
 それ以来、エドは下級兵士として身を落とし、アスベリアにその恩を返し続けている。アスベリアはこの任務が終わったら、エドを故郷へと帰すつもりでいる。彼は家と共に幸せに生きるべきなのだ。

「……なんだ?」
 アスベリアは、グラスに残った最後の一口の酒を飲み干そうとしたその時、何か外の違和感に気がついた。この部屋の窓からは、サンダバトナの堅牢な黒い門が見えるのだが、今の時間ならばそれが硬く閉ざされているはず。それが、逆にゆっくりと開き始めているのだ。
「馬鹿な!」
 アスベリアは勢いよくグラスをテーブルに置くと、窓を開けて身を乗り出し見間違いではないかと確かめた。
 しかし、門はアスベリアの見違いなどではなく、徐々に徐々にゆっくりと開いていくではないか。
 門がその重たい巨体を引きずる音、厳つい鎖がじゃらじゃらと鳴る音までもが、あたりに響き渡っている。先ほどまで楽しそうに酒を酌み交わしていた兵士たちも、不思議そうな顔で広場に出てきて、その門が開いてゆくのを呆然と眺めていた。
 あの門が、朝を迎える前に開くなどということは本来ありえないことだった。あれを開けるのに、どれだけの兵士が駆り出されることか。
「一体、何が起きてるんだ?」
 アスベリアは、駐留施設の門番を呼び寄せ、状況を把握しようと努める。門番をしていた兵士は、まだ少年の面影を残した痩せた体に、似合わない鎖帷子をつけていた。少将に呼び出されて、自分が何か不手際を犯したのかと、びくびくしている。
「……あ、あの、オルバーからの使者と申される方が到着されましたので……」
 緊張しきりの兵士はそれだけ言うのが精一杯だった。
「オルバーからの使者だと!?」
 王都のほうで何か起きたのか。アスベリアは慌てて自分の剣を掴むと、部屋を飛び出し広場を横切って、駐留施設の門のところまで駆けていった。

「アスベリア様」
 程なく傍らにエドが立つ。
 アスベリアが立つ門の向こうから、幾人かの兵士が走り回り、掛け声をかけて門を開けようと力をあわせている様子が伝わってきた。
 その中に、嘲笑を含んだ声が混じり飛んできた。
「早よう!早よう開けぬか!私を誰と思うておる!!」
 アスベリアは、その胸糞悪い甲高い声を聞いて、一瞬で眉根を寄せ舌打ちした。無理やりにでもこの門を開けよと言っている男は、自分のために右往左往している兵士たちの姿を見て楽しんでいるのだ
「くそっ!」
 思わず吐き捨てる。
「どうなさいますか?アスベリア様」
 エドの表情も同様に曇っていた。背後に集まっている部下たちも、一斉にアスベリアを見つめている。
「仕方ないだろう、開門しろ!」
 二日後までは絶対に開かないはずの門が、ゆっくりと開いていくのを、アスベリアは剣を腰に下げながら黙って見つめていたが、
 ――ブタ野郎が!
 と、心の中で激しくののしった。
 その門の外で待ち構えているオルバーの使者が誰なのか、アスベリアには分かったのだ。そして、それが自分の事を信用されておらず、こんな真夜中にもかかわらず無理やり門を開けさせるような奴を、わざわざ寄越したことも。よりにもよって、あんな下種野郎を!

「開門!」
 外からまた男の声が飛んでくる。
 ――もう開門してるんだよ、馬鹿!
と、言ってやりたい気持ちをぐっと抑えて、この怒りをどうにか静めようと両の握りこぶしを自分の太ももに打ちつけた。
「アスベリア様……」
 その様子を見かねてエドが心配そうに声をかける。
「分かっている」
 自分の気持ちを理解してくれる者が傍にいるというだけで、少し気持ちが和らいだように思えた。
 開ききった門の向こうに、大きくて真っ白な豪奢な馬車が待ち構えていた。
 ――相変わらず悪趣味な奴だ。
「このようなところにはおられぬ、早よう入れ!」
 と、馬車の中から誰かがやかましく騒ぎたてていた。御者は馬へと激しく鞭をくれると、そこに集まっていた兵士たちを跳ね飛ばすほどの勢いで門をくぐり広場を駆け抜けていった。
「うわぁ!」
 兵士たちがクモの子を散らすように逃げ惑う姿を眺めながら、くすりとある男が笑う。
 その男は、勿体つけたようにその馬車の横にかしずいていた優男で、馬車が建物の奥へと消えた後も、馬の背に跨りそこに残っていたのだ。
 走り去った馬車の方を呆然と見つめながらざわつき統制の取れない兵士たちを、男は馬上からゆっくりと眺め渡し、その中からお目当ての人物を探し出した。

「貴公がアスベリア=ベルン殿か」
 男は馬から降りようともせずアスベリアに馬を寄せると、悠然とその上から見下ろし、値踏みするかのように黙って眺めていた。
 そうこうする内、その口元に侮蔑の笑みを浮かべ、生白い指先をその唇に当てるしぐさをした。まるで爬虫類のような細い目をした奴だ。アスベリアは眉根を寄せる。
 アスベリアが眉をひそめたのを、なぜか男は満足そうに見つめると、その瞳同様薄っぺらい唇の片端をくいっと上げ、馬車が消えた方向に顎をしゃくった。
「その粗末な身なりでは、とてもナーテ様にはお目通りできまいが?」
「は?」
 アスベリアは絶句する。
 ――なんだと?粗末な身なりだぁ?
「その身なりを正し、すぐにナーテ様のもとへ参られよ。主公がお待ちである」
「な!」
 アスベリアが身を引いた瞬間、男の馬が勢いよく走り出した。馬が高慢に振った尻尾が、アスベリアの頬をかすっていく。
「アスベリア様、正装されて参られますか?それとも、鎧でも着こんでいかれますかな?」
 エドが少々笑みを含んだ言い回しで、アスベリアの肩をたたく。
「必要あるか、マントだけで十分。ブタ公に会うのにそんなものが必要か?」
「…アスベリア様、ブタ公というのはよくありませんな。せめてこの場では」
「すまん」
 父親にたしなめられる子供のように、アスベリアは頭を下げる。
「ではブタ公の前でその面構えを存分に披露できますように、着飾って参るといたしましょう」
 エドはますます面白そうに、アスベリアを見上げた。