第三章 変心の夜更け 4
エドは、アスベリアの荷物の中から、正装の次に上等な、シルクの黒の上下を持って部屋に現れた。アスベリアの長身に似合う細身のそれは、スタンドネックの縁にプラチナでダクティリフェラの装飾が入っていて、大粒のブルーアンバーが埋め込まれている。ブルーアンバーはアスベリアのキャメルブラウンの瞳の色に合わせてあしらわれたもので、とても上品にその端正な顔を彩っていた。
「いつまでも下級兵士のような格好はなさらず、これをいつもお召しになればいいのです」
「エド、何を企んでいるんだ」
「人の価値はその身なりだけでは推し量ることはできませぬ。しかし、あのようなものに対しては、これがよいかと。……特に今は」
エドは普段アスベリアの格好などには口を出したりはしない。アスベリアが向けた視線に、エドはただ微笑むばかりだ。
肩にかけた起毛した紺色のマントが、長身をよりいっそう引き立て、高貴な空気さえまとっている様に見える。
エドは満足そうにうなずくと、ここまでする必要があるのかといぶかしむアスベリアを送りだした。
ナーテ公の鼻を明かしてやれと、エドはアスベリアの遠ざかる背中に心の中で語りかけた。今の自分が周囲にはどのように見えるか、アスベリアは分かってはいない。しかし、君様方の心はどう動くかな?
さて、この見ものを実際目にすることができないのは惜しいなとエドは苦笑した。
エイリア=ナーテ公。第二都市オルバーの領主ハドルス=クレテ公の唯一の実子である。もちろん、王弟の息子という地位にあり王位継承権を持つ王族だ。しかし、このナーテ公、趣味が女狂いというところが父親と一緒で、非貴族階級はごみ同然と思っているところも同じ。自堕落で豪奢な生活を送り、およそ国政というものには参加せず、ただ自国の財産で醜く増大し続ける肉塊のごとき姿だ。
――挙句、国王の間か……。
アスベリアは、ナーテ公が今夜の宿として陣取った場所――国王の間――の前の大きな扉の前に立った。ここは、アスベリアに与えられた部屋とは雲泥の差。すべてが豪華で贅を尽くされた調度品で埋め尽くされている。
繊細な彫刻を施されたダークオーク材の分厚い扉は、ぴったりと閉じられているが、その中からは陽気な音楽と華やかに笑う女たちの声が漏れ聞こえてきた。
――女?
アスベリアは、ここがまるで娼館かのような騒ぎの扉の前で一瞬呆然と立ちすくんだが、やがて気を取り直すと、その扉をゆっくりと拳で三回ノックした。
何の反応もない。相変わらず女たちの賑わしい笑い声や、歓声が扉の向こうからもれ聞こえてきた。
アスベリアは小さく息を吐くと、もう一度扉を叩こうと片手を持ち上げた。とその時、扉が内向きに開き始め、先ほど馬上からアスベリアを見下ろしていた男がその間から顔を出し眉をひそめた。
まるで――何用か、こんな夜更けに――とでもいわんばかりの不躾で無遠慮な軽蔑した表情を隠そうともしない。
「アスベリア殿……、ナーテ殿下をお待たせするとは……。貴公は己の立場をご存知ないのか」
アスベリアはむっつりと黙って、細く開いた扉に手をかけ、男を部屋の中に押しもどすように強引にそれを開いた。
――立場だと!?そんなもの、嫌というほど分かっている。
「ア、アスベリア殿!?」
女のような甲高い声が、部屋中に響き渡った。その瞬間、その空間に充満していた声という名の空気が一斉に動きを止め、ばらばらと地に落ちて毛足の長いじゅうたんの上を跳ね回る。
部屋の奥、巨大なソファーの上でだらしなく短い足を投げ出し、こちらを見ようとしている男がいた。体勢を変えようともがくが、その体に蛇のようにまとわりついている女たちが妨げになり、その姿はまるで無様にひっくり返されたカエルの如く哀れな醜態だ。
女たちは、扉を押し開けて登場したアスベリアの姿を瞬き一つせず凝視している。カエル男、もとい、ナーテ公にぶどうの実を口移しで食べさせようとしていた女の口から、ポロリとその実が落ちた。
アスベリアはゆっくりと騎士の礼をナーテ公に向け、紺色のマントを優雅に払い絨毯の上に片ひざをついて頭を垂れた。
「アカヤ領主、国王軍参謀少将、アスベリア=ベルンでございます」
無用な挨拶は一切しない。
この部屋に来るまでにアスベリアは、なぜナーテ公がわざわざオルバーから来たのかを考えていた。考えるだに腹が立ってきて、とにかく長々と挨拶などしておられるものかと、ここまでで言葉を区切ったのだ。
「貴公、巫女姫はどうされたのだ」
ぜいぜいと荒い息を吐きながら、ナーテ公はなんとかその身を起こした。
「予はわざわざオルバーからここまで早馬車で参ったのである。その理由が分からぬはずはあるまい」
この肉塊。顔の下の首が、胴と一体化したように肉のひだに覆われた、なんとも人間とは思えない塊。肉に締め付けられた喉から、まるで搾り出すかのような声がもれ聞こえてきた。
アスベリアはなるだけゆっくりと体を起こし、顔を上げてナーテ公の脂肪に埋もれた小さな瞳を見返した。
上目使いに顔を上げたアスベリアを見て、ナーテ公の体にまとわりついていた女たちは、お互いになにやら耳打ちし始め、くすくすと綿のような笑い声を上げる。中にはやおら顔を赤らめ、ショールで顔を隠すものもいた。
アスベリアの瞳に、鉱物の金と琥珀の滑らかな光りが宿り、前髪の隙間からちらりちらりと輝いている。その美しさと端正な顔立ちに、女たちは主人の存在を一瞬で忘れたようだ。
「巫女姫は、我が軍の指揮下にて幽閉されております。ご安心召されませ」
エドに任せておけば間違いなどない。アスベリアはさらに言葉を続けた。
「我が軍には、物見遊山に巫女姫を見物しようと思うような不届き者はおりません。巫女姫はザムラス国王陛下への大切な賜物でございます。それとも……、ナーテ様はいまや国王陛下の物である巫女姫に御用でもおありか?」
ナーテ公はアスベリアの放った侮蔑を含んだ言葉には気づきもしなかったのだろう。それよりも、周囲の女たちのくすくす笑いの方が、自分への侮蔑が含まれていることに気がいっている。女たちが小声でしきりにアスベリアの容姿を誉めそやしているのが、耳に入ってきたのだ。
「
ナーテ公はまるでかんしゃくを起こした子供のように、両手を振り回して喚いた。手に持っていた金色のゴブレットからぶどう酒がこぼれ、女たちの上に撒き散らされると、女たちは悲鳴を上げて公の体から離れ、次々と隣の部屋へと駆け込んでいった。
辺りが一瞬静かになる。
ナーテ公は、上気した顔を周囲に向け、呆けたように口をぽかんと開けた。
「静かになりました。これでゆっくり公のお言葉が拝承できるというもの」
アスベリアの静かな物言いに我に返ったのか、ナーテ公が振り上げていた手をゆっくりと下ろす。
「もうよい!其方と話しておるだけで酒がまずくなるわ!下がれ!」
アスベリアは
「まったく、平民上がりというものは……。礼儀というものをわきまえておりませぬ。ナーテ様、あのような下賎の者のことなどで、お心を痛めませぬよう」
扉を閉める瞬間、爬虫類の顔をした男が、ナーテ公へと慰めの言葉をかけるのが聞こえてきた。
「あのようなものと同じ部屋におったかと思うと、身の毛もよだつ。
胸が苦しい。早よう、窓を開けて風を通せ!女たち!何をしておる!酒を注ぐのじゃ!」
アスベリアはふんっと鼻で笑ってその前から立ち去り、赤い絨毯の敷き詰められた廊下を歩き始めた。