第三章 変心の夜更け 5

 やはり、大したことのない男だ。それどころか、存在自体が無駄だと思える。王族とは中心から外れればあのようなものばかりなのか。
 そんなものにまで信服されていないことにアスベリアは愕然とし、そして虚脱感に体を包みこまれた。
「そんな顔するんじゃないよ。いい男が台無しじゃないか」
 この場には不釣合いな艶やかで濡れたような声が、アスベリアの前方から聞こえてきた。
 自分の部屋へと続く広場へ出る入り口のあたりだ。アスベリアは自然とそちらへ目線を送り双眸を細めた。
「……シェンタール……。お前も来ていたのか」
 アスベリアはため息を吐く。
 シェンタールは体のラインが強調されるようなぴったりとしたドレスをまとい、むき出しの細い肩に透き通ったショールをかけて、けだるげに自分の金色の髪の毛先をもてあそんでいた。
「あの下種野郎に、娼館を丸ごと買われて仕方なくさ」
 立ち止まるアスベリアにするりと身を寄せると、シェンタールはマントの下の体に腕を回してアスベリアの胸に体を預ける。
「……あの野郎のところに戻れよ」
「しばらくぶりだってのに、相変わらずお堅いことだね。私はあんたの馴染みだろう?」
 シェンタールはアスベリアを見上げ、白くて細いひんやりとした指先でアスベリアの頬を撫でた。エメラルドグリーンの大きな瞳が、いたずらを楽しむかのように細められる。アスベリアはシェンタールの手を取ると、手の甲に唇をつけながら苦笑した。
「それを言うなら馴染みじゃなくて、どちらかといえば幼馴染だ。オレはお前と寝たことなんてないだろう。それにお前はもう、他の旦那のものだしな」
 シェンタールには、娼館を買い与えてくれた旦那がいる。オルバーの城下で店を開いているのだ。アスベリアと王都カリシアで乞食同然に身を寄せ合っていた、あの頃の仲間。
「相変わらず面白くない男だね」
 アスベリアは自嘲の笑みを浮かべ、シェンタールの腰に腕を回したまま広場へと出た。先ほどまで明るく周囲を照らしていた月は、闇色の雲のベールに包み込まれてしまい、辺りは松明の明かりだけで薄暗い。兵士たちの宴も終盤のようで、心地よい気だるげな話し声が静かにもれ聞こえてきた。

「ああ、懐かしいね、この曲」
 シェンタールはアスベリアの首に両腕を回しながら、背伸びをして首筋に唇を当てた。
 兵士が弦楽器を奏でているのだろう、少し調子の外れたワルツがゆっくりと流れてきた。二人はいつだったか、まだ幼なさの残る頃に、宮廷にあがったらダンスも踊れなくてはと、路地裏で見よう見まねで練習したことを思い出す。二人はどちらともなくその調子の外れたワルツに合わせて踊り始めた。
「なあ、シェンタール。オレはこの国にとって、小さな駒の一つに過ぎないのだろうか」
 シェンタールの豊かにカールした金色の髪に、アスベリアは顔を埋めてつぶやいた。シェンタールは、アスベリアの胸に頬を当てながらくすりと笑う。
「何をいうのさ。仮にも領地を与えられた立派な騎士様だろう?私らからしたら、まさに大出世!おまけにいい男になっちまって。今のアスなら女が群がるのも当然。少しはうちに通って金を落としていったらどうなんだい。
 贅沢言うんじゃないよ。昔の垢まみれの生活を思ったら、雲泥の差じゃないか」
「確かに、そうなんだが……」
 そう褒めそやされても、アスベリアはいまいち釈然としない。
「惜しいことしたよ。あんたがこんなに立派になるってわかってたら、無理やりにだって寝ておくんだった」
 シェンタールの冗談が、アスベリアの心を軽くする。
「それももう間に合わないね。私、今、妊娠してるんだよ。
 ……そうだ、腹の子をアスの子供だと言ってやろうか。そうしたらあんたは私のものだよ」
「馬鹿を言うな……」
 ゆっくりと流れていたワルツは、いつしか夜想曲へと変わり、夜闇の中へと消えていった。静かで甘い旋律だけがその場に残り、思い出がそっと広がっていった。