第三章 変心の夜更け 6
■3-2 それは幻想か、本心か
サンダバトナの街を出発して七日間、ずっと雨が降り続いている。雨季に入ったのだ。
――出来ることなら、この時期の進軍は避けたかったのだが。
アスベリアは馬車の窓からどんよりと分厚い雲に覆われた外を見上げた。日が昇っている間は小雨程度なのだが、一旦日が沈むと激しく大地を叩くような大粒の雨に変わるのだ。今年は雨季に入るのが例年より早い。
特に、アスベリアはオルバーへと続くこの山道を気にしていた。なんといっても、今やこの隊には余分なお荷物が付随している。ナーテ公の一団だ。これさえなければ、もっと急いで進軍することもできたのに。
国王軍の黒々とした隊列の後ろに、冗談だろうと言わんばかり、真っ白に塗りたくられた馬車の一団が続く。
それもその一団が、ことあるごとに前方へ伝令をよこし、アスベリアたちの足を止めるのだ。その伝令のほとんどが、たわいもない文句ばかり。アスベリアは心底うんざりしていた。
アスベリアたちの目指すオルバーは、大陸最高峰のアンバティナ山、ブルーペクトライトの産出で名高いドルテナ山を抱くコドル山脈の南に位置し、元は寄生火山でオルバ山という山の山頂であった。
オルバ山の山頂が火山活動の一環により陥没し、長い年月をかけてカルデラ湖となり、その湖がオルバー湖と呼ばれた。
その湖は不思議な形状をしており、コドル山脈から流れ込む水がなみなみと張られたその後に、中央付近の地形が再び隆起し始め、やがて、大きな島が出来上がったのだ。
そしてその長い年月の後、その地形ゆえに自然の要塞として的確だと思った、時の大帝ディアスポラがそこへ都を築いたといわれ、起源に至っては大変歴史の古い都なのだ。
寄生火山ではあったのだが、その形は成層火山のように、東西に向かって長い裾野を持ち、東に至ってはサンダバトナまで、踊り子のスカートのように広がった山肌が続くのだった。
旅人は、南からの急な斜面を行くよりも、東西から回り込み、延々と続く緩やかな山道を行くことを選ぶが、その道でさえ、オルバーの湖の手前にいたっては旅人への試練かのごとく、片側が断崖に切り立った道幅の狭いところを行くことになるのだ。
アスベリアたち一行は、すでに問題の断崖のそそり立つ岩場の道に入って半日が過ぎようとしている。その上、この雨で夜の進軍は出来ない。さらに苛立たせる伝令が後ろから来るとなると、アスベリアの我慢も限界を過ぎて、途方もなく無の境地に陥りそうなほど、頭を空っぽにしたい衝動に駆られるのだった。
アスベリアは、何時間も揺れる馬車の中で、目の前に据え付けられた籠をじっと見つめる。
巫女姫は相変わらずアスベリアと共に馬車に乗っている。
これについては、出発前夜ナーテ公とまたひと悶着あったのだが、女がひしめくナーテ公の馬車に巫女姫を乗せる場所がないということと、当日、巫女姫が自ずからアスベリアについていくそぶりを見せたということで事なきを得た。
流石のナーテ公でも、巫女姫の神の鉄槌を恐れたのかと、アスベリアは内心ほくそえんだ。
相変わらず、アスベリアと巫女姫は、一日の大半をこの小さな馬車の中ですごしているのにもかかわらず、交わした言葉は十指で足りるほどである。
巫女姫は籠の中に新たに設えた小さな寝台に腰を下ろし、羽毛のクッションをひざに抱えて、小さな明かり取りの窓を凝視しているか、そのまま目を閉じているかのどちらかだ。時折、アスベリアの方を見つめるときもあるが、すぐに視線を外してしまう。
――何を考えているのか、さっぱり分からない――というのが、アスベリアの正直な想いだった。
アスベリアが夕食の盛り付けられたトレーをエドから受け取り、巫女姫の籠の中へ滑り込ませる。
「……夕食です、巫女姫」
アスベリアはここ数日で、巫女姫が果物が好きだということまで把握していた。それほど心を砕いて、観察している証拠だ。
声をかけても身じろぎしない巫女姫をじっと見つめる。
――眠っているのだろうか?
アスベリアは身を乗り出して、籠の隙間から中を覗き込んでみた。ただの少女ではないか。アスベリアは再びそう思うよう努める。まだ幼さの残る額が見えた。馬車の中で輝くランプの光が、籠の隙間を通して、少女の白い肌を断片的に浮き上がらせている。
瞳を閉じて少しうなだれている小さな顔だ。まだ細く繊細で長いまつげが、途切れ途切れの光りに照らされ、頬に複雑な影を落としていた。少女が呼吸をするたびに影は震え、その姿を変える。
まるで、木の下に寝そべって木漏れ日を顔に受けているようなそんな穏やかな表情だ。
――なぜ……。
アスベリアは思う。
――確信のように、想い続けられるのか――と。
「ラルフか……」
少女がつぶやくある少年の名前。アスベリアはテルテオからここまでの道中、何度も耳にした。必ず自分を迎えに来ると、その確信だけで、少女はこの平静を保っているのではないかとアスベリアは思う。
何がそんなにも少女を奮い立たせ信じさせるのか。ただの恋心か……。アスベリアはふと、首筋がざわつくのを感じて、そこに手をやる。
――……美しいな……。
少女は急にその双眸を開けると、アスベリアの方へと顔を向けた。アメジストに光り輝く瞳の中に、しっかりとアスベリアの姿を捉えていた。
アスベリアは慌てて口を押さえかごから離れると、平静を保とうと自分の夕食のトレーに乗ったぶどうの実をつまんで口に入れながら、定位置となっているソファーに乱暴に身を投げ出した。
自分が口にした言葉に動揺していた。いや、声に出したわけではない。しかし、思わずつぶやいてしまいそうなほど、少女の表情は魅力的だった。
神の世界に通ずるといわれている巫女姫の存在。アスベリアは実際にジェフティを見るまでは、宗教的妄想が生み出した虚像なのではないかと思っていた。巫女には何の力もなく、ただ偶像・象徴としての存在なのではないかと。
しかし、今はその考えも変わりつつある。何か少女の存在自体、そのすべてにアスベリアの心を揺さぶるような何かがあるような気がしてきたのだ。
こうして二人でいる時間、会話はほとんどない。時々アスベリアが話しかけるだけだ。しかしそれでも、巫女姫の存在、意志というものをアスベリアの心が感じることがある。実際に指先でそっと触れたような、そんな感触。何も隠せない、何も抗えない、そう、心の中の想いが溢れかえってくる。息苦しいまでの衝動が、巫女姫の指先で引きずり出される、そんな時は必ず巫女姫がこちらを見つめているのだ。あのアメジストに輝く双眸で、何もかもが白日の下に晒されてしまう。
ジェフティは恐怖など微塵も感じてはいない。もしもアスベリアが喉元に短剣を突きつけても、その瞳の輝きは衰えることなどないような気がした。
――オレを駆り立てているのか。
アスベリアは心の中でつぶやいてみる。ちらりと目線をやると、紫色の強い輝きがアスベリアの心の奥へとするりと入ってきた気がした。
――何に……。
一瞬湧き上がった想いが、自分の体を瞬時に包み込む。
――まただ……。
『……アス……』
再び許されない罪が心を苛む。なぜ……、なぜ、それが今なのだ。
背筋が寒くなる。
――オレに罰を与えよう、と?
アスベリアの表情が苦しみに歪み、片手で前髪をくしゃりと掴むと唇をかみ締め、ジェフティの双眸から目を逸らしたい衝動をぐっと抑えた。
――一体、この少女の目的はなんだ-
復讐か。制裁か。それを行うだけの理由が巫女姫にはある。それとも、この胸に去来する想いこそ、それがアスベリアに対する神の意志だとでもいいたいのか。
陛下が手に入れたがっていた巫女姫とはどういう存在なのだろうか。陛下は巫女姫がどのようなものなのか知っているのか?
――あまりにも危険だ。
アスベリアは咄嗟にそう思う。
なぜ、陛下がこの少女を連れてこいという命を下したのかは聴かされていない。国民にその存在が生存していることを悟られないよう、事情を知るものはすべて殺せという念の入れようだった。
――陛下は、この巫女姫をどうするつもりなのか?
隣国コドリスの手に落ちる前に、自分で保護しようと思ったのか。いや、保護などという生ぬるい思いで命令したわけではないだろう。この国の王は思いやりなんてものは欠片も持っていない男だ。