第三章 変心の夜更け 7

 ディルーベスの村は男が少なく、収入も乏しい。近隣の村からの供え物として届く食べ物や金品などで生活しているようなものだ。
 何度かディルーベスの村から援助の嘆願が届いたが、まったく耳を貸そうともしなかった。それどころか、陛下は近隣諸国との領地の奪い合いにうつつをぬかし、自分の国の内情も無視して、国民に重い税をかせ苦しめていた。挙句、収穫の時期も無視し男たちを戦場へと集める始末だ。
 いつだったか、宰相が我ら領主たちの嘆願をまとめて陛下に進言したが、その時など陛下の逆鱗に触れてしまい、宰相は貴族階級を取り上げられ騎士権すら剥奪されて没落したのだ。
 それを今になってどうだ。今まで疎ましくさえ思っていたほどだったのに、他の国が欲しがっていると知ったら、目の色を変えて自分のものだと主張したがる。
 幼稚で強欲な考えではないか。

 ノリスの言葉がよみがえる。
 ――私たちは、陛下にとって捨て駒の一つだ。何のために人を傷つけなくてはならない。もう剣を握る理由がみつからないんだ。
 あれは、ノリスが王都を去る直前、アスベリアに別れを告げにきたとき、引きとめようとしたアスベリアにノリスは疲れきった表情でそう言い頭をふった。
 ――だからなんだっていうんだよ!あんたが剣を手放しても現実は何も変わりはしない。あんたはただ、自分の罪を許されたいと思っているだけじゃないか!
 軍を去ろうとするノリスに激しく詰め寄り、アスベリアは自分が抱える虚しさを吐露したことを思い出した。
 もう自分には、この道しか残されていないのに、なぜお前は簡単に農夫に戻れるのだと。

 何を今更。贖罪の機会すらとっくに失ってしまった。
 戦場で孤児になった子供を拾い、助けたつもりが上からの命令で始末しなければならなくなった。子供の目から見れば、敵国の兵士というよりも、自分に笑いかけてくれる憧れの騎士に写っていたことだろう。きらきら輝く信頼をこめた視線を裏切り、血が滲むほど唇をかみ締めて剣を振り下ろした、あの感触。
 ――……アス……。
 もう二度と決して向けられることのない笑顔が、アスベリアを責める。もしも、自分に権力さえあれば助けられたかもしれない少女の面影。
 体に染み込んだ沢山の人間の血は、農夫に戻るだけでは洗い流せない。ノリスの苦しみに満ちた瞳が、アスベリアへの哀れみで歪み消えていく。
 ――ならば、オレはこの血塗られた道を行くまでだ。オレが信じる栄光を約束された地に続く道を。どんなに多くの人間を犠牲にしたって、それで権力を手にすることができるのならば。
 アスベリアの口元に薄っすらと笑みが浮かんだ。

 権力だ!何ものにも揺るがされることのない絶対的な力。
 万人が、自分に跪くその光景を、必ず見届けてやる!

 ――あんたには負けないぞ、ノリス!
 テルテオの村から立ち上る、天を焦がすような紅蓮の炎が脳裏によみがえった。
 ――どうだ。あんたが心臓を握りつぶされるような思いで守り続けた村は、いとも簡単に消滅したぞ。あんたが愛した土地を、その愛するものたちの血で汚してやった。もうオレを止めることはできない。
 アスベリアは目の奥がずきりと痛み、握りこぶしを額に押し付けて、ぎゅっと硬く瞳を閉じた。
 ――オレは引き下がらない!オレに相応しい地位と権力を手に入れるまでは。オレたちは戦場でしか生きられないんだ。ノリス、あんたもこれでやっと悟れただろう?
 ぐっと目を見開き、まっすぐに顔を上げた。巫女姫の双眸がいつもにも増して光り輝いているように感じる。アスベリアの姿が、くっきりとその瞳の中に見える。
 ――見えるぞ!
 アスベリアのキャメルブラウンの瞳が、巫女姫の瞳の光を吸収したかのように輝きを放った。巫女姫が映すアスベリアの姿は今の自分ではない。それは……。
 ――そうか!それがオレが望む真の姿か!

 アスベリアが思わず身を乗り出して、籠の網目に指が触れようかというその時だった。
「な!」
 馬車が唐突に大きくゆれ、前後に弾むように激しく軋むと動きを止めた。アスベリアの伸ばした手は空を切り、そのままよろめいて床にひざをついた。
「何があったんだ!?」
 アスベリアが素早く馬車の戸に手をかけたその瞬間、彼は至近距離から時の声が上がったのをはっきりと聞いた。