第三章 変心の夜更け 8
■3-3 災いの星
――一体、何が起きているんだ!?
ぬかるみに足を取られながら隊列の後方を見つめると、消えかかった松明の明かりを振り回しながら、血相を変えた兵士がアスベリアに駆け寄ってきた。兵士の後方にはぼんやりと雨に煙るその先にナーテ公の乗る白い馬車が見える。
「アッ!アスベリア様!」
悲痛なほどに裏返った声の兵士は、今や轟音と化した雨音にかき消されそうだ。
「何事だ!」
アスベリアはマントの中に手をいれ、剣の柄に右手の指を這わせた。
兵士の顔が松明の炎に照らされ、不気味に浮き上がっている。
――イムン……だったか……。
まだ幼い輪郭を残したその兵士の顔は恐怖に引きつり、頬が歪んで眼が大きく見開かれている。イムンは少年兵で、まだ戦場へと出たことはない。前日のテルテオ侵攻のときにもアスベリアはイムンをエドと同様サンダバトナに残したのだ。
イムンは突如隊列の後方で起こった出来事に怯え、唇を震わせ眼に涙をためている。
「どうしたんだ、イムン」
アスベリアは声を落として、イムンの肩に手を置く。イムンは少将の落ち着き払った表情を見て、少し落ち着きを取り戻したのか、声を震わせながらも、後方を振り返り報告を伝える。
「あ、あの、突如山賊に襲われ、隊列の後ろで小競り合いが始まっております!」
「山賊?」
国から課せられる重い税の影響で、苦しんだ農民たちが自分の土地や畑を投げ出して、他国からやってきた裕福な商人や旅人を襲うという話は聞き及んでいた。しかし……、とアスベリアの表情は曇る。
――この隊は仮にもノベリアの旗を掲げた国王軍だぞ。
山賊が襲うとはとても考えられないのだ。
「アスベリア様……」
エドがアスベリアの背後でそっと声をかけた。
――何かあるな。
と、アスベリアは
「どこか身を隠せるところを探せ。明かりもつけてはいけないぞ。闇にまぎれろ。この声がやむまで決して出てくるんじゃないぞ」
イムンはこくりとうなずくと、松明の炎をがけ下へと投げ出し隊の前方へと走り出した。
アスベリアは、巫女姫の乗った黒塗りの馬車を見つめた。
「エド、頼みがある。オレの馬をすぐに用意してくれ。食料も袋に詰めるんだ」
「は!」
アスベリアは、周囲に集まってきている隊列前方の兵士たちに命令を飛ばした。
「私もすぐそちらへ行く!戦に手馴れておらぬ元農民の集団とはいえ、気を抜くなよ!」
後方では、ナーテ公の取り巻きの兵士たちとアスベリアの後方部隊がすでに山賊と交戦中だ。
アスベリアはマントを翻し馬車へと駆け戻ると、自分のマントを肩から外し床に広げた。巫女姫は、馬車の明かり取りの窓から山肌のほうを食い入るように見つめている。アスベリアは懐から取り出した鍵で、扉を開けると巫女姫の手首を掴んでぐいっと引っ張った。
「何をするの!」
夢中になって外を見つめていた巫女姫が、我に返ったかのようにはっとし、アスベリアの手を払おうと身を引いた。
久々に見た子供らしい怯えたような反応だった。アスベリアはなおも巫女姫を引っ張って抱えると、自分のマントにその体を頭からすっぽりと包み込み抱き上げる。
巫女姫が嫌そうに身をよじったが、ここで手を離すわけにはいかない。
「大人しくしてください。貴方をここから逃がします」
巫女姫の動きがぴたりとやみ、夜闇にも光る瞳が、アスベリアのマントの隙間から彼の横顔を捉えた。
「あなたはどこへ行くの?」
アスベリアは、その問いには答えようとはせず、巫女姫を抱えたまま馬車を降り、雨に打たれながらエドが引いてくる馬のほうへと歩き始めた。
――どこへ行く?
アスベリアの心が揺らぐ。その言葉の真意に、一瞬触れたような気がしたのだ。それは、この場でのことなのか、この後のことなのかは疑いようもない。アスベリアは素早くその思いに蓋をして、隊の後方を振り返った。
「この隊は賊に襲われています。私も戦わなくてはならない。しかし、貴方をここにおいておくことはできません。……嫌な予感がするのです」
雨が少し勢いを弱めてきた。後方から剣の交わる音と罵声や怒号が聞こえてくる。腕の中の巫女姫の体が、緊張したように縮こまった。
「エド、この馬に乗ってオルバーへ向かってくれ。巫女姫をお守りするんだ」
エドが一瞬何かを言いたげにアスベリアを見返したが、やがてゆっくりと頷くと
「巫女姫、ご安心ください。エドは歴戦の勇だった者です。貴方を必ずオルバーへと連れて行ってくれます」
エドが馬の体をアスベリアに寄せ、片手で巫女姫の体を馬の背の上に引っ張り上げた。
「頼んだぞ!オルバーについたら、この隊が何ものかに襲撃にあったと伝えてくれ。オレは収拾がつき次第後を追う!」
「アスベリア様、ご無事で!」
馬が走り出そうと身を震わせた瞬間、巫女姫は包まっていたマントから片手を出し、アスベリアの額に人差し指と中指を当ててつぶやいた。
「ご武運を…」
指先から温もりが体内に染み込んできたその瞬間、馬が走り出し指先が額から離れる。巫女姫の双眸が悲しげに伏せられ、あっという間に見えなくなる。
――どうか、ご無事で……。
巫女姫の祈りが、温もりと共に体の隅々にまで広がったのをアスベリアは感じていた。
「こんなオレのために、祈ることなんてないのに」
馬に跨ったエドの後姿が、闇の中へと吸い込まれるように消えていくのを見届けると、アスベリアはその闇に背を向け、腰に下げた自分の剣の柄をぎゅっと握り一気にすらりと抜刀した。今の自分には、この目の前にしか道はない。
雨が止んだ。雨季だというのになぜ。
足元に余韻を残し雨は姿を消し、頭上には二つの月が、アスベリアの今後を見届けようとしているかのように雲の隙間から久しぶりに顔を出そうとしている。
――なるほど、これはオレに対する運命の啓示か。
アスベリアの瞳にはキャメルブラウンに輝く強い光が差しはじめている。戦場と化した後方を見据え、その只中へと駆け出した。