第三章 変心の夜更け 9

 エドは、巫女姫の体をしっかりと片腕に抱えながら、暗闇の中を走った。
 先ほどから急に雨が上がり、空には寒々とした光を湛えた月が、破れたベールのような雲の隙間から見え隠れし、その度にエドの行く手の道を途切れ途切れに照らし出していた。
 ――雨季だというのに、珍しいこともあるものだ。それとも巫女姫が雨に濡れぬ様にと神が配慮したのか。
 このどこにも逃げ場のない断崖の道をひたすら行くと、自分たちが目指していた、王都カリシアへの中継地点となる第二都市オルバーにたどり着ける。
 カリシアへはどう見繕っても馬の足で後二十日はかかる道のりだ。アスベリアはオルバーへ行くことを嫌っていたが、食料や物資の調達のためにはどうしても寄らなくてはならない。
 オルバーの王弟の元で待っていれば、アスベリアと再会できるはずだ。
 ――あれが、そんな襲撃ごときでくたばるとは思ってはおらん。
 それよりも、エドはこれから二日ほどの間、巫女姫を抱いてこの道を走りとおさねばならないことへの困難を思った。

 エドは馬の歩調を緩め、ゆっくりと歩かせ始めた。この山道を駆け上り続けて二時間は経過している。そろそろ、馬の体力も限界だろうと思えてきたのだ。後方を振り返ってみるが追っ手が近づいてきている気配はない。今や頭上に燦然と輝きを放つ月がすっかりと顔出しているせいで、この山道にはどこにも隠れる部分がないほどに照らし出されている。
 こうして、腕の中に子供の暖かな柔らかい重みを感じていると、久しく忘れていたことが次から次へと思い出される。
 まだ、自分のこの足が二本そろってあったころ、若さに過信して無茶ばかりをしていたずっと昔のことが。

 ――思えば、私の人生は、ほとんど戦場で過ごしてきたようなものだ。
 アスベリアと始めて会ったのは、オスベラスの内乱を鎮めるための徴兵を募った折、少年兵として志願してきた彼が、適性検査を受けに受付に並んでいたときだった。
 ――奴は腹をすかせて青白い顔をした痩せっぽっちの子供だった……。私は戦場に送り出すことを躊躇ったが、奴の目が強い意思で私の心を掴んで離そうとはしなかった。
 あの頃からは想像もつかないほどに立派に成長したアスベリアの姿を思い浮かべた。
 ――生意気になりおって……。
 エドはふっと笑う。
 あの意志の強い琥珀色の瞳が、エドの心を離すことはなかった。戦場で駆けずり回る少年を、まるで自分の子供のように思い、時には命を助け、そしてその存在に自分も助けられていた。

 王都カリシアから南西に位置する大陸の半島部分、オスベラスがまだ一つの独立した国だった頃、ノベリアはその領土への侵略を図り進軍を開始した。
 その頃、エドの妻シェアナは始めてできた子供を亡くしたばかりで、憔悴し床に伏せていた。しかし、エドは、そんな傷ついたシェアナを一人家に残したまま、必死に彼を制止しようとする彼女の手を振り切り戦地へと赴いたのだった。
 なぜあんなにも戦場に心酔していたのか、今になってもその理由が見つからない。
「お願いだから、もうその手を汚すようなことはやめて!あなたを失いたくないの」
 か弱い声だった。何度涙に曇るその声を聞いたことか。その言葉を背に戦場に出ると、必ず生きて帰るんだと気持ちが引き締まったものだ。
 しかし、オスベラスとの戦いに赴こうと戸口に立ったエドに、シェアナはいつもとは違う言葉を投げかけた。
「もしかしたらもう、もう……、あなたが帰らないかもしれないって、どんな時も思い続けて、待ち続けるのが辛いの……」
 子供ができたとき、――あなたの分身だからもう寂しくはないわ――と言っていた、あの嬉しそうな笑顔はもうどこにもなかった。
 なぜ、気がついてやれなかったのか。悔やんでも悔やみきれない。
 シェアナは、子供を亡くした罪悪感に囚われ、自分自身を責めその思いに苛まれていたというのに。エドはそれを感じ取ることもできず、いつもと同じようにシェアナを一人残したまま家を出てしまった。
 戦争に出かければ、それなりの報酬を得ることができた時代だった。体の弱いシェアナに、辛い畑仕事をさせなくても楽に暮らせる位の生活を与えてあげたかった。しかし、エドはシェアナがそんな生活よりも欲しがっているものがあるという事に気がつかなかったのだ。

 子供を喪ったシェアナの為に、オスベラスで孤児になっていた男の赤子を譲ってもらい、長い戦いも勝利を収め、ようやく帰宅の戸についたエドを待ち受けていたのは、やせ衰え寝台から起き上がることもできなくなったシェアナの変わり果てた姿だった。
「……シェアナ……」
 戸口に立って泣き叫ぶ赤子を抱いたまま、呆然と立ち尽くすしかなかった。
 どのくらいの間そうしていただろう。気がつけばシェアナはエドに向かって両手を差し出し、エドの無事を喜び、にっこり微笑みかけてくれていた。心労でやせ衰えてしまった体を起こすこともできないというのに。それでもなお、エドに向かい彼のすべてを許そうと笑顔を向けている。
 エドは急に涙が溢れ出し、その場にくずおれてしまった。
「すまない!シェアナ……、私を許してくれ……!」

 それからまもなくシェアナはこの世を旅立った。エドが貰ってきた赤子を愛しそうにその胸に抱きながら。
 シェアナは最後までエドに微笑みかけてくれた。食べ物が喉を通らなくなるほどに寂しい思いをさせてしまったのに。
 ――いっその事、私に罵声を浴びせ憎んでくれればよかったのに。
 シェアナはその代わり、何ものにも替えられない愛情をエドに残していった。
 あの時ほど、女を心の底から愛しいと思ったことはない。
 シェアナが育てていた畑に、実りの穂が金色に色づいた頃、エドは少年の姿へと成長した子供をつれてその地を離れた。今、その時の少年は立派に成長し、オルバーで教師をしている。
 エドと同じ軍人としての道を選ばなかったことを、エドは深く神に感謝し、仕事を紹介して尽力を尽くしてくれたアスベリアに対して厚謝の念でいっぱいだった。
 奪い奪われる戦場に赴くことはなく、これからの時代を担う子供たちに明日を教える事を選んだ息子を、エドは誇りに思っていた。
 その息子が、娘が生まれたと息を切らしてエドの元へとやってきたのをつい昨日のことのように思い出す。小さな重みをあの日腕に抱いて、どんなに嬉しかったことか。
 今、こうして再び、柔らかで暖かな重みを腕に感じていると、今まで過ぎ去った時を思い出すことができる。
 ――ああ、私はシェアナにあんな寂しい思いをさせてしまったというのに、なんと幸せなのだろうか。
 その息子と同じ歳のアスベリア。
 エドにとっては自分と同じ道を歩み、同じ苦しみを背負う彼をもう一人の息子のように思っていた。
 ――あれも……、拭い去ることのできない罪を抱えている。それも……私とは違い、その罪は自分自身でしか、許されることはない。できれば、その行く末を見守ってやりたいが。
 エドが見上げた夜空は、今や満点の星が輝くビロードのような暖かさで、エドの心をそっと包み込むのだった。

「……泣いているのですか?」
 その声にはっと我に返り腕の中を覗き込むと、巫女姫の悲しそうな双眸が、暗闇で月の光を吸収して光り、エドを見つめていた。エドは手綱から手を離し、そっと自分の頬を拭ってみたが、涙は流れていなかった。
「いえ、泣いてはおりませんよ、姫」
 エドはひどく優しげな笑みを巫女姫に向ける。
「なんだか、とても悲しい気持ちを感じたから。でも悲しみを包むように幸せが広がっていて…」
 巫女姫はぽそりとつぶやく。エドは小さな体を抱く腕に少し力を込めた。
「あなたの温もりで思い出していたのです。悲しい出来事でしたが、私にとっては暖かい幸せな思い出だ。振り返れば、思い出というものはそういうものではないですか?……ああ、あなたにはまだ早すぎたようだ……」
 話している相手が、まだ自分の人生の五分の一ほどしか生きていない少女だと気がついて、エドは苦笑する。アスベリアのマントをすっぽりとかぶっているため表情はよく分からないのだが、巫女姫には人の気持ちを感じる能力があるらしい。