第三章 変心の夜更け 10

「優しい……、思い出なのですね」
 本来ならば、相手も分からぬ敵に追われているかもしれないこの緊迫した状況なのに、エドは巫女姫の言葉に安らぎを感じていた。右も左も暗闇の、行く先も見失いそうな茫漠とした不安に満ちた世界に、空に輝く太陽のような光りを抱いている。そんな気持ちになるのだ。
 ふと、巫女姫が両手を宙に差し出し、何かをそっとその手のひらの中へ包み込むようなしぐさを見せた。ひどく優しげな柔らかいしぐさで。両の手を握り締めたまま、自分の胸へと引き寄せ抱きしめた。
「何か、捕まえましたか?」
 エドはその自然でさりげないしぐさに、一瞬そこに何かあったのかと、周囲に視線をやる。
 巫女姫はそっと両手を広げ中を覗き見た。エドはそこに何も見ることはできなかったが、巫女姫の瞳にはきらきらと輝く不思議な光が写っていた。
「もうすぐ…、赤い星が落ちてくるの。真っ赤な血でできた、燃え盛る星が」
 巫女姫の表情が、その美しく白い頬が苦痛に歪む。エドはそのあまりにも辛そうな表情を見て、咄嗟に腕に力を込め、自分の胸に巫女姫を抱き寄せた。
「……!」
 その刹那、エドの心に痛いほどの巫女姫のものと思われる恐怖と孤独が流れ込んできた。想いが逆流している。
「ご、ごめんなさい!」
 巫女姫がはっと我に返ったようにエドを見上げ、悲しそうに長いまつげをそっと伏せた。
 ――これが巫女姫の心の痛みなのか。

 一瞬だったが、自分の中に流れ込んできたその痛みは、エドの心の壁を鋭利な刃物でざっくりと切りきざむほどの威力があった。こんなにも寂しい、こんなにも痛々しい孤独がこの少女のどこにあるというのか。
 エドは自分の日に焼けてしわだらけの大きな手で、巫女姫の髪をそっと撫でる。今のエドには、こうすることでしか巫女姫の心を暖めてやれないというやり場のない悲しみが広がった。
「今、捕らえたものは何ですか?」
 巫女姫はぎゅっと両手を握り締めた。
「災いの種なの。とても小さいけれど」
「……災いの種、ですか?」
 ディルーベス信仰には多少なりとも知識はあったが、その言葉には聞き覚えはなかった。
「私がいてもいなくても、争いは終わりはしないの。星は、私たちの存在を無視していつでも落ちてくるから。
 神様は気まぐれよ。巫女たちがご機嫌を取らなくなってしまったから、とたんに機嫌が悪くなってしまった。
 ほらまた、星が流れた……」
 巫女姫はまた手を伸ばしてそれを掴む。
「私がこうして、落ちる瞬間に拾ってあげることしかできない。神様の気まぐれで、痛めつけられた可哀想な星なの」
 エドは言葉にならなかった。こうしてこの少女は、この地に降る災いを拾い集めているというのか。今、この世界で生きている誰も知らないところで。その小さな体で一人で。
 災いの種となる星も、痛めつけられて可哀想だと慈しんで、大切に抱きしめている。
 ――これでいいのか。会った事もないようなたくさんの人間の幸せの為に、少女の体が犠牲にならなくてはならないのか。
 戦争を引き起こしているのは誰だ?災いの星を降らせる神なのか。
 もう、争いは嫌だ。諍いにはうんざりしている。何も知らない相手を憎んで、血を流して得られるものなど何もないのに。
 傷ついて傷つけられ、自分の臓物を引きずり出すような憎しみを振り絞り、剣を握り締めて自分自身を裏切ってきた。
 ――私が今までの人生をかけて得たものは、そんな悲しみの上に成り立つものだったが。
しかし、もうそんな想いはしてほしくない、誰にも!
 エドは巫女姫の髪を撫でながら、自分が感じ続けてきた後悔に苛まれていた。
 ――どうしたらいい。このまま、オルバーへ行くべきなのか。王陛下への献上品としてこの少女を……。
「迷わないで」
 巫女姫が顔を上げた。
「え!」
「お願い、私を王に渡そうかどうかなんて、そんなことで悩まないで。
 言ったでしょう。私がいてもいなくても争いは起きるし、私が拾いきれない災いの星は、拾った星よりも多い。
 それに、私、待っているから」
 エドは、巫女姫がかすかに微笑んでいることに気がついた。その表情は歳相応のかわいらしい、花がほころぶような可憐な笑顔だ。
「何を、待っているのですか」
 巫女姫は少し俯いて耳に片手を当てた。
「ラルフ……」
 それは聞き取れるかどうかの、かすかな呟きだった。
「守ってくれるって約束したの。私もラルフを守るって……、だから駄目。今私があなたと姿を消してしまったら、追いかけてきている男の子が迷ってしまうでしょう?
 離れていても平気なの。これを二人で片方ずつつけているから」
 巫女姫がエドに手のひらいてラピスラズリのピアスを見せた。そして、自分が来た山道の後方を振り返って見る。
「大丈夫、私たちは必ず会えるから。私、信じてるから」
 その言葉は、まるで自らに言い聞かせるかのように、ゆっくりとかみ締めるようだった。
「少年は、あなたを取り戻すために、血を流して人を傷つけることになるんですよ。あなたを追いかけてくるという事は……、彼の身にも危険が迫る。それでもいいのですか?」
 残酷なことを言っているのは分かっている。しかし、言わずにはいられなかった。もうこれは、ただの夢物語でも、恋への憧れでもないのだから。
 きっと、少年は傷つくだろう。血を流して死ぬかもしれない。王の手の内へと落ちゆく巫女姫を救い出そうとするなんて、不可能に近い。可能性など、これっぽっちもないのではないか。

「迷わずにこのまま行って!」
「しかし……」
「お願い!傷ついても苦しんでも、それでもいいの!ラルフに会いたいの!」
 巫女姫の瞳から涙が一筋零れ落ちた。
「私も同じだけ苦しむから!同じだけ傷つくから。だからお願い」

 ――罰は私が受ける。災いの星を拾うのは、ラルフに少しでも災いがふりそそがないように。私はもう、巫女姫なんかじゃないもの。ラルフの幸せだけを願う一人の女の子になりたい。
 もう、エドには何も言うことはできなかった。巫女姫の決意は大岩のように揺るぎなく、氷で閉ざされた海の下の水のように、心は孤独で凍り付いていた。
 ただ一心に、大切な人に会いたい、その想いを抱えて。
 エドは馬の足をオルバーへ続く道へと向けながら、神に願わずにはいられなかった。
 ――どうか、この子をこれ以上苦しめないで下さい。来てくれると信じてやまない少年を傷つけるようなことだけは。どうか、どうか……。

第三章 変心の夜更け END
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