第四章 霧の中夢の中 1

■4-1 繋がる赤い夢幻

 シェシルは、アフィシオンでたらふく飯を食った後、ラルフを引きずるようにして宿屋に戻ってきた。アフィシオンでは、三人分の食事を平らげ、エルゴー酒を四杯もあおった。飲みっぷりも男らしい、とラルフは呆れ顔でそれを見ていた。
「……なんだ、早く食え」
 シェシルは持ち上げたエルゴー酒のジョッキの陰から、片目だけをラルフに向ける。
「シェシルの食いっぷりを見ただけで、腹いっぱいだよ……」
「軟弱なやつだ」
 ラルフはため息をついた。
「いいから食っておけ。……今度いつこんな飯にありつけるか分からないんだからな」
 周囲のテーブルに座る客たちには聞こえないように、声を落としてつぶやく。ラルフは、目の前に山盛りに盛られたファボル鳥のフライを黙々と口に運び始めた。

 ラルフはというと、昼間のラドナスの街を見たいと言ったがために、首根っこをつかまれ、力任せに宿屋まで引きずられてきた。街並みを楽しむ余裕などこれっぽっちもない。
「お前のおかれている状況をよく考えてからいえ!」
 わかったからその手を離せよ、と言ってはみたが、シェシルの手はどうもがいてもびくともしなかった。この分だと、明日の朝には首に真っ黒な痣ができているだろう。

 宿屋の入り口では、ラルフがラドナスまで乗ってきた馬が、退屈そうにあくびをしているのが見えた。シェシルの乗ってきた馬は宿屋の主人が(うまや)に移動させたらしいがラルフの馬はそのままだ。
 シェシルは宿屋の戸を乱暴に押し開くと、フロントで身を硬くしている宿屋の主人に視線をやった。

「ひっ!す、すす、すいません。お客様……!う、厩はすでにいっぱいで……」

 主人はシェシルを死ぬほど怖がっている。そんな主人に、シェシルは低いドスのきいた声で話しかけた。
「日が落ちる前に表の馬の手入れをして餌を与えろ。いいな」
 シェシルから手渡された銀貨を両手で握り締めながら、主人は首が痛んでしまうのではないかというほど大きく何度も頷いている。ラルフは気の毒なその主人に同情の視線を送った。

 シェシルはラルフの体を、自分が抱えている荷物か何かのように引きずっていくと、部屋のドアを開けた瞬間、中に放り込んだのだ。ラルフは硬い板張りがほぼむき出しの床に頭を打ち付け派手に転がる。
 ラルフは、ジンジンとうずくように熱を持った後頭部を擦る。
「いいか、夜になるまでこの部屋から一歩も出るな」
 ラルフは自分に向かって突きつけられたシェシルの人差し指の先を見つめながら、大人しく頷くしかない。口答えする言葉も見つからなかった。
 そんなラルフから視線を外すと、シェシルはマントを脱ぎラルフに投げつけて、寝台に腰を下ろした。旅用の重い革靴をごとりと床に投げ出すと、そのまま寝台に横になる。

 はぁ、とシェシルの口から自然にため息が漏れた。腰から外したナイフを枕元に置くと、眠そうに片手で目を擦る。
「寝る……。雨戸は絶対に開けるなよ。夜になったら教えろ……」
 そう言った途端、シェシルの動きが止まった。十秒もしない内に寝息をたて始めてしまう。今、ラルフの目の前には、ぐっすりと深い眠りに落ちたシェシルの寝顔があった。
 驚くほど寝つきがいい……、とラルフは不思議な生き物を見るようにしてシェシルの顔を覗き込んだ。

「……夜になったら教えろって……、雨戸が閉まってちゃ夜になったかどうかなんてわからないじゃないか」
 ラルフはため息をつき、――いてて――とうめきながらようやく立ち上がった。
 シェシルの命令は絶対だ。悔しいけれど、それが今の状況を把握した最善の答えだからだ。始めて来た大きな街ではしゃぎ、油断をしたためにシェシルの荷物を盗まれそうになった。というか、実際盗まれたのは、完全にラルフのせいなのだ。
 さっきだって、街を見物したいだなんて言ったりした。無神経だった。
 ただ純粋にラルフは街の中の様子を知りたかっただけなのだが、考えてみればラルフたちは普通の旅人ではない。ここに来る途中の出来事を思い返した。
 ――今でも、命を狙われているのかな。
 なぜ……、そこまでして村人を追い掛け回す必要があるのだろう。ただ、ジェフティと共に数ヶ月生活したというだけなのに。それだけなのになぜ殺されなくちゃならなかったんだろう。ラルフは、自分の理解のできない出来事について答えを出すことができず、思わず顔をしかめた。シェシルならそのことについての答えを知っているのかもしれない。
 シェシルの慎重な態度を見れば、今もまだ危険が去ったわけではないと気がつく。軽率な行動はシェシルの足を引っ張るだけだ。子供だからって甘えてはいられない。

 それにもう二度も、シェシルに命を助けてもらった。
 ――俺の為に、シェシルは人を殺した。
 思い出すだけで、ノベリアの兵士たちの殺気がラルフの体を縛り上げた。あんな殺意を向けられたことなんて一度もなかった。
 ――俺たちが何をしたって言うんだ!
 不条理さに手が震える。
 ――シェシルは、平気なのかな?
 ラルフの代わりに、またその手を血で染めた。風呂場で自分の手を――血で染まっている――と言って眺めていたシェシルの悲しげなまなざしを思い出す。
 ――なぜ、俺の為に……。
 シェシルの穏やかな寝顔を見つめた。今まで一人で旅をしていたんだろうに。今更、仲間が欲しいなんてことはないはずだ。こんなガキを拾って連れ歩くなんて、自ら問題を背負い込んだようなものだ。
 ――……ノリス。
 忘れられないノリスへの想いが、シェシルにそうさせているのかもしれない。ラルフはノリスに感謝した。きっとノリスがシェシルに出会わせてくれたに違いない。そう自然と思えたからだ。
 シェシルが寝返りを打ち、寝台から上掛けがするりと落ちた。ラルフはそれを静かに拾い上げると、そっとシェシルの上にそれを広げて掛けてやる。
 ――こうやって見ると、まるで大きな子供だ。
 夜通し馬の背に揺られていたからだろう。相当疲れていたに違いない。シェシルはよく眠っていた。
 グレーの光りを放つ短い髪が、寝台の上に広がり、くしゃくしゃに乱れている。額にかかっていた前髪の隙間から、新しくできたばかりの赤い切り傷が見え、ラルフはどきりとした。昨日の戦闘で負った傷だと、安易に想像がつく。シェシルは鎧に身を包んでいたのではない。それも屈強そうな男たちに囲まれ、ほとばしる殺気の只中にいた。思わず血生臭い匂いがよみがえってきた。
 ラルフは思わず両手で自分の顔を覆った。
 本当はあんな争いなんて嫌に決まっている。血の匂いも、人を斬りつけた時の感触も忘れることなんてできない。村が襲われたとき、ジェフティを守ろうと剣を振り回した時は、何がなんだかよく分からなくなっていた。殺されるという恐怖と、ジェフティを守らなくてはという想いが自分を支配していた。
 ――嫌だ!怖い!
 シェシルの剣を構えた時の姿を思い浮かべた。
 ――恐怖なんて、微塵も感じてないんじゃないのか?
 逃げたり怯んだり、そんなそぶりすらなかった。屈強な男たちに剣を振りかざすとき、逃げたいと思わないのか。それは、あの凄まじい剣技に裏打ちされた自信があるからなのか。
 ――俺にはそんな剣技も勇気もない!どうしよう、怖くて仕方がないよ。
 ラルフはずるずるとその場にへたり込む。寝台に頭を預け、シェシルの規則正しい寝息に耳を傾けた。なぜかこうすると、心が落ち着いてくる。伝わってくる温もりに恐怖が和らいでいくのを感じた。シェシルの寝息に、自分の呼吸を合わせながら、いつの間にかラルフも、夢の中に迷い込んでいた。


 草むらから抜けると、開けた場所に出た。辺りは濃厚な重い空気に包まれ、頭上からなにか押さえつけられているような圧迫感を感じていた。
 ――だめだよ、そっちに行っては!
 ラルフは切迫した焦りのような、嫌な胸騒ぎを感じた。
 目前を走るジェフティに追いつくことができない。ジェフティはラルフを振り返ることもなくまっすぐに駆けてゆく。目の前に広がる湖は、うねうねとその身をくねらせるように、水面が激しく波打ち始める。ジェフティはそんな湖にも怯むことなくどんどん入っていってしまう。
 ――だめだったら!ここは底なし沼になってるんだ!
 ラルフは必死に鈍重な空気をかき分けるようにジェフティの後を追い、湖の中に足を踏み入れた。しかしジェフティの姿は遠い。なおも振り向きもせず湖の中心へと向かっていく。
 ――どうしよう!…追いつけない!連れ戻せない!!
 湖の水は凍り付いているかのように冷たく、足はどんどんと底に溜まった泥に埋もれていく。焦れば焦るほど体は沈み、身動きが取れなくなる。
 ――何を!何をしようとしてるの!?ジェフティ!
 ラルフの体が水の中へと完全に没してしまうその瞬間、ジェフティが月色に輝く銀色の髪を振ってラルフを振り返った。
 ――赤い星が落ちてくるの。それを拾いにいくのよ
 ジェフティは笑っていた。

 ドプン。

 ラルフの頭が水中へと消える。
 ――駄目だ……!ジェフティ!
 息ができない、苦しい!途端に冷え切った孤独がラルフに襲い掛かってきた。