第四章 霧の中夢の中 2

「く、苦しい……」
 本当に息ができない。どうしたんだ!?
「?!!!……シェ、シェシル……重いよ」
 ラルフが目を開けると、シェシルの寝顔が至近距離にあった。寝台に乗せていたラルフの頭を、シェシルは抱き寄せるような形で抱えていたのだ。
「首!し、絞めてる……から!」
 ラルフが身じろぎしようがシェシルは起きる気配がない。
 ――怪力っぷりは寝ているときも健在なのか!?
 ラルフはシェシルの腕からもがきながら抜け出すと、床にしゃがみこんでぜいぜいと息をした。息を整えて、再びシェシルの寝ている寝台の端に腰を下ろす。

 ――俺、眠っていた……よな。
 どのくらい眠っていたのだろう。閉められた雨戸から細く漏れてくる光がオレンジ色をしていた。どうやら日が沈もうとしているらしい。
 ラルフは背筋を突き抜けるような震えがきて、思わず自分の肩を両腕で抱きしめた。体が冷え切っていた。
 ――あれは、夢……だった。
 目が覚める直前にみていた夢が、あまりにも生々し、重々しい空気も、水に沈んだときの感触もまだ体に残っていた。
 雨戸から漏れてくるオレンジ色の光りが、見つめているうちにだんだん濃度を増していき、赤く燃えるような輝きへと変化していく。
「赤い星……」
ラルフはつぶやいた。
 夢の中で感じた胸騒ぎは、いまだに治まらない。わけも分からない不安が、後から後からこみ上げてくるみたいだ。
 ジェフティに触れられなかった。でも、痛いほどの恐怖は伝わってきた。振り返ったときに見せた笑顔は、それをラルフに隠すため。
 ――なぜ隠そうとしたんだろう、ジェフティ。
 ラルフはラピスラズリのピアスに指先を触れさせた。二つで一つのピアスの片割れ。どこにいても、離ればなれになっていても、必ず二人を引きつける力があるという石。
 薄暗い部屋の中で、ピアスを外して、その濃密なほど青く深い色を湛えた石を手のひらの上で転がしてみた。
 ラルフたちを夢の中で再会させてくれたのがこの石の力なら、今すぐ教えてほしかった。ジェフティが感じていたあの恐怖は、赤い星とはなんだったのか。
 怖い思いはしていないだろうか。ひどい扱いは受けていないだろうか。泣いてはいないか。
 しかし、心の底から望んでみても、語りかけても、石は何も答えてはくれない。
 離ればなれになってまだ、そんなに日にちが過ぎたわけでもないのに、ラルフは今すぐジェフティに会いたい。そう痛切に思った。

 雨戸の隙間から入ってくる光りを、どのくらいの間見つめていただろう。その光りが徐々に力を失い、床から壁に向かって長く伸びて、そしてその光りが消え部屋の中が暗くなるまで、ラルフはずっとそれを見つめていた。
 部屋の中が暗闇に支配されると、外からまた昨日のように女たちの甲高い笑い声や、男たちが陽気に話す声が聞こえ始めた。
 夜だ。
 にぎやかな外の音が増してくると、それと同時に新たに夜を照らす外の明かりが部屋の中へと忍び込んできた。
「シェシル、起きて。夜になったよ」
 ラルフはシェシルに命令されたとおり、声を掛けて起こそうとした。ラルフに背を向けているシェシルは少しもぞっと動く。ラルフはその背中に手を置いた。
「ねえ、シェ……!とっ………わぁ!」
 ごちっ!重たいものが何かにぶつかった音が、部屋に響いた。
「っつ、いってぇ……」
 ラルフはうめき声を上げた。
 ラルフがシェシルの顔を後ろから覗き込んだ時だった。シェシルの手が、厚布を折りたたんで作られた枕の下から出た瞬間、ラルフの喉元に冷たく光るものがぴたりとあてられたのだ。ラルフはそのひやりと冷たいものを避けようととっさに身を引き、そのまま後ろへと倒れこんで、窓の縁に後頭部を打ち付けたのだ。

 シェシルはナイフを構えた姿勢のままで、床に倒れこんだラルフの方へと視線を向けた。ナイフの刃に反射した光りが、シェシルの瞳を浮きあがらせる。その瞳はアメジストの強い光りを放ち、険しさに満ちていた。
「なにすんだよ!」
 ラルフは喚く。あまりの痛さに目に涙が浮かんでいた。
「お前が後ろから声をかけたりするからいけないんだ」
 シェシルの声が寝起きでかすれていた。ナイフを鞘に戻し、寝台の上で体を起こして髪をかきあげる。
「なんだよ、俺のせいなのかよ。シェシル、今、寝ぼけたんだろう!?」
「夜か?」
「人の話をきけよ!夜になったから起こしてやったんだろう?」
  シェシルは喚くラルフを無視して寝台から離れると、窓に近づき静かにそっと雨戸を少しだけ押し開け外の様子をうかがった。
 その姿勢のまま、シェシルは目線だけをラルフに向けると、先ほどの険しい光りを湛えた瞳のままで口を開いた。
「……ラルフ、お前、さっき何か夢を見なかったか?」
 ラルフはその言葉にはじかれたように顔を上げる。シェシルにはラルフのその表情だけで十分だったようだ。
「見たんだな……」
 そうつぶやくと、シェシルは雨戸をそっと閉じて、まとめられていた荷物のほうへと歩いていった。
「私も見たんだ。お前がジェフティを追いかけていく夢だった」
「……ジェフティは、赤い星が落ちてくるって。それを拾いに行くって言っていた。…シェシル、赤い星って何?」
 シェシルはまとめられた荷物の中から何かを取り出している。そして、ラルフの言葉に首を横に振った。
「私にも分からないよ。ただ……嫌な胸騒ぎがした……」
 シェシルは立ち上がると、素早くマントを羽織る。
「ここを出るぞ」
 ラルフはえっ?と顔を上げた。
「この街を出るのか?」
 ラルフも慌てて自分のマントを羽織り、長剣を背中に背負う。

「人ごみの中で買い物をして、夜に街から出るほうが人目につきにくい。それに、できるだけ夜のうちにここを離れたほうが、何かと安全だからな」
「まだ、休んでなくていいのかよ」
 ラルフはシェシルの抱えていた荷物を受け取ろうと手を伸ばしたとき、シェシルの手を掴んだ。
「!」
 その手は、ハッとするほど氷のように冷たかった。ラルフはその冷たさに鳥肌が立ったと同時に、シェシルもあの場面を夢で見ていたことを確信した。なぜ、同じ夢を。
「大丈夫だ。逃げ道も考えてある」
 ラルフが黙り込んだことを、これからのことを心配してのことだと思ったのか、シェシルは少し笑いながら自分の剣を掴んだ。
 ――本当か!?俺は知ってるんだぞ。シェシルが相当な方向音痴だって事を。
「どこを通るんだよ」
「お前に説明してわかるのか?」
 ――ほら、それってやっぱり強がりだろ。また適当なことを言って。
 だが、面と向かっては言えないのだ、これが……。
 ラルフはわざとふて腐れた声を上げた。
「わからないよ!きいてみただけだろう!」
 そう言いながら、戸口へと向かおうとするラルフの腕をシェシルは掴むと、ぐいっと自分のほうへと引き寄せた。さっとラルフの口を手でふさぎ、声を封じる。
「しっ!ラルフ、これを持つんだ」
 シェシルのもう片方の手が動き、ラルフの鳩尾になにやら硬いものが押し当てられた。ラルフはとっさに手を伸ばし、それを握り締める。
「なんで、短剣……」
ラルフはぼそりとつぶやく。
 シェシルはラルフを自分の後ろに隠すと、部屋の入り口のドアの横の壁にぴったりと身を寄せた。
「くそ!思ったより多いな」
 ラルフの耳に舌打ちが聞こえてきた。シェシルの意識はすでにもうそのドアの向こうに向けられている。
 もう、ラルフはシェシルに何もきかなかった。ラルフの耳にも、廊下の方から、ゆっくりと忍び足で階段を上がってくる何人かの足音が聞こえてきたからだ。