第四章 霧の中夢の中 3

 ラルフがごくりとつばを飲み込み喉を鳴らした。背中に背負った荷物が、急に重さを増したようにずっしりと足にきたように感じたのは、多分突然沸き起こった緊張のせいだろう。
「ここの廊下は狭い。甲冑を身に纏った男二人が並ぶことはできない」
 シェシルが独り言のように小さな声でつぶやきながら、自分の背中の荷物をぐいっと持ち上げた。
「お前はまだ体が小さいから、身をかがめれば足元をすり抜けられるだろう。斬りつけられても、背中の剣は焦って抜くな。長い剣は、狭い廊下では不利になる。私が注意をひきつけるから、その間に逃げろ」
 やけにゆっくりとした話し方だった。シェシルはラルフに話しかけながら、タイミングを計っていた。
「ラルフ、昨日と同じだ。この戸を開けたら私を振り返るな。自分の身は自分で守れ。そうしないと、いつまでも一人前の男にはなれないぞ」
 ラルフは黙って頷いた。昨日のように足手まといにはならない。
「行くぞ!」
 シェシルはそう言うが早いか、入り口のドアを蹴り飛ばし廊下に躍り出た。

 ラルフは手の中に握り締めた短剣を皮の鞘から抜くと、鞘を腰のベルトに差し込んだ。胸の前で構えそのまま壁に体を押し付けて、緊張で荒くなる呼吸を整えようと深呼吸をする。
 廊下では、突然飛び出してきたシェシルに驚いた兵士たちから怒号があがる。
「シェシル=デュルード!」
 鎧の内からシェシルの名が挙がると、他の男たちから驚きの声が漏れた。
「悪魔の女か!」
 シェシルのいらだった舌打ちと怒鳴り声がラルフの耳に飛び込んできた。
「やかましい!私の名を気安く呼ぶな!!」
 蹴り破った入り口から、廊下の光が流れ込んできて、ラルフの足元に広がる。その真ん中に伸びる黒々とした影は、シェシルの長身から繋がっていた。
 この宿屋には他にも宿泊している客がいる。廊下の騒ぎを聞きつけたほかの宿泊客が、何だ何だと自分たちの部屋から顔を覗かせる気配があった。
 ラルフはシェシルの影をじっと見つめる。その影が手にした大振りのナイフを握りなおすと、大きく足を踏み出した。

 ダンッ!
 廊下の向こうで男たちが床に叩きつけられて倒れる音が次々に聞こえてきた。
「ひぇ!」
それに混じって、廊下に顔を出していたほかの宿泊客が慌てふためいて部屋の中に飛び込み、ドアを勢いよく閉める音も廊下に響き渡る。
 激しく身を躍らせる影。兵士の腕を取り、こめかみを狙って躊躇せずにナイフの柄の石突で殴りつけ、一瞬で気を失った体を突き飛ばす。
 ――シェシルは剣を握らなくても戦えるのか。
 動き回る影を見つめながら、シェシルが先ほど言っていた事が正しいのだとラルフは悟る。兵士たちはこんな狭い室内での戦い方を知らないのだろう。長い剣を振り回す事もできずあたふたしていた。その隙をついて、シェシルの蹴りが飛んでくる。
 ズガッ!
 兵士が闇雲に振り回した剣は、シェシルに届くどころか、剣先が壁にめり込む始末だ。一方シェシルは大きな荷物を背中に背負ってはいたが、身をかがめナイフ一本で男たちの懐へ飛び込んでいく。その軽い身のこなしは、影を見ているだけでもラルフに伝わってきた。
「ラルフ!今のうちだ、早く!」
 シェシルがラルフの名を呼ぶ。ラルフは口の中いっぱいに溜まった唾を飲み込むと、意を決して廊下へと飛び出した。
 シェシルが男と組み合っている。ひじで男の剣の握り手を壁に押さえつけ、もう一方の手でナイフを深々と甲冑の隙間へ押し込んだ体勢だ。
 男の苦悶に満ち、見開かれた瞳が真っ赤に血走っていた。
「早く!」
 ナイフをねじるようにして引き抜いたとき、血の飛まつが、脇をすり抜けようとしたラルフの額にぽたりと落ちた。途端にその男の体が揺れ、壁の明かり取りの窓にぶち当たり、ガラスが割れる凄まじい音と共に、階段下へと転がり落ちていく。ラルフは一瞬ぼうっとなって、物言わぬ塊となった兵士の末路を見つめた。
「ぐずぐずするな!」
 ラルフに気がついた兵士が、襟首を掴もうと伸ばした腕を、横から力いっぱいシェシルは蹴り飛ばす。ラルフの目前にまで迫っていたそれは、メキリと背筋が寒くなるような気持ちの悪い音を立てて、あらぬ方向へ曲がった。
 兵士が激痛に堪りかねうめいてその場にしゃがみこむ横っ面を、シェシルは容赦なく殴りつけ、ぎらりと黄金の炎の踊るアメジストの瞳を一瞬ラルフに向けた。
 ――容赦なく叩きのめす。自分がやられないために。

 ラルフは慌てて、倒れている男たちを飛び越え、一気に階段の踊り場へと駆けくだった。
「いたぞ、テルテオのガキだ!」
「逃がすな!」
 しかし、ラルフはその声に取り囲まれてしまった。階段の踊り場まで下りてきたラルフは、一階のロビーで待ち構えていた兵士たちの、むき出しに光る憎悪に満ちた瞳を見つめる。
 ――なぜ、憎まれなくちゃならないんだ。
「畜生、手こずらせやがって!」
「観念しろ、小僧!」
 男たちは口々に恨み言を言いながら、ジリジリと階段を上りラルフへと迫ってくる。ラルフはただ、抜き身の短剣を前に構え、階段を上がってくる兵士たちを見つめた。
「何している、ラルフ!さっさとそこから飛び降りろ!」
 後ろからシェシルの罵声が飛んできた。
「飛び降りるって、一体どうやって!」
 ラルフはきょろきょろと辺りを見回し、踊り場の手すりの向こう側に、宿屋のカウンターがあることを確認すると、そこに駆け寄り一気にその向こう側へと身を躍らせた。
 ――し、しまった!
 思った時にはもう遅く、カウンターの端につま先が引っかかったと思った瞬間、ラルフは体勢を崩し床にひっくり返った。一瞬足元が揺れて、カウンターの向こう側へと落ち、無様な格好で転がったときに、短剣が手から滑り落ちた。
 兵士たちは隙だらけとなったそんなラルフを見て、カウンターの中へと乗り込んでくる。
 カウンターの隅に、ここの宿屋の店主が頭を抱えて丸くなって震えているのが見えた。ラルフは床に落ちた短剣を慌てて拾うと、頭上を仰ぐ。
 兵士が一人、カウンターの上に飛び乗り、ラルフを串刺しにしようと剣を振り下ろした。
「死ね、小僧!」
「うわぁ!」
 ラルフはとっさのことに拾い上げた短剣の存在も忘れ頭を抱えた。
「……え?」
 何も起きない。ラルフはこわごわ頭上を見上げる。ラルフに剣を振り下ろそうとしていた兵士の体が、カウンターの上で不意に傾くと、どおっと大きな音を立ててその向こうへとひっくり返った。
 ラルフは混乱した頭を抱えたまま、よろよろと立ち上がり、迫ってきた兵士たちの腕の下をかいくぐりながら、カウンターから転げ出た。ラルフを串刺しにしようとしていた兵士は、完全に床の上に転がって絶命している。その首には、深々と見覚えのある大振りのナイフが突き刺さっていた。
「シェシル!」
 ラルフが一瞬顔を上げると、シェシルはまだ踊り場の辺りで、兵士たちと組み合っている。手にはもう何の武器も持ってはいなかった。
 ――どうしよう!
 ふと、シェシルと目が合った。シェシルは目線だけで宿屋の入り口をラルフに示す。
 ラルフはもう自分だけでここから出るしかないと覚悟を決めて、体勢を低くし、立ちはだかる大きな体の兵士の足元に飛び込んだ。

 容赦なく振り下ろされる剣先を身をひねってかわす。目の前に振り下ろされた、剣を持ったほうの腕に飛びつき、握っていた短剣を素早く肩口へと叩き込んだ。大きな体の男は重い鎧で胴を守っているため、重心が上にある。ラルフはその体勢のまま、兵士の腕を渾身の力を込めて引っ張る。ラルフの突然の行動に身を引くことができず、そのまま床に突っ伏した。
 ざっくりと深く切られた傷から、たらたらと血が床に滴り落ちる。自分の肩から流れ落ちる血を見た男の目がぎらりと光った。