第四章 霧の中夢の中 4
兵士がぎりぎりと奥歯を食いしばり、怒りで顔を真っ赤にしながら、ゆらりと立ち上がった。
「なめた真似、しやがって……」
ラルフが突き刺した短剣をその肩に差し込んだまま、兵士は傷ついていない方の手に自分の剣を握りなおす。男がその剣を怒りに任せて横に凪いだ。
剣先が一歩後ろに退いたラルフの胸元をかすめる。兵士が怒りにうなり声を上げた。
ラルフは、シェシルにあれほどいわれていたのにもかかわらず、肩に背負っていた剣を抜刀し、床に剣先を引きずりながらじりじりと後ずさった。気迫だけでも負けてはいけない。目を逸らしてはいけない!
しかし、兵士はラルフの素人臭い剣の持ち方に安心したのか、大きく一歩前に出た。ラルフはとっさに、重い剣の先を床にすりながら、どうにかそれを持ち上げ、体ごと回転させるように力任せに振り上げた。
「うりゃぁぁぁ!!」
ぶん!という空気を切り裂く音がしたかと思うと、次の瞬間、メキッという気味の悪い音が聞こえ、ゴリッという嫌な衝撃が剣先からラルフの手のひらへと伝わってきた。
「!?」
重たい剣にラルフ自身が振り回されるほどの勢いで振り上げられた剣は、その勢いをさらに増すかのように、白く眩しい光りを放つ。
後ろにひっくり返りそうになりながら、体を回転させることで何とか踏みとどまったラルフの目の前を、何かが掠め落ちていく。それは、潰れたような音を立て、床に叩きつけられた。
その刹那、そこから勢いよく散ったものが、ラルフのマントと服に弧を描くように飛び散ると、悲鳴と怒号が同時に沸き起こった。
「ぎぃやあぁぁぁ!!」
床に突っ伏しのたうつ兵士の腕の先は、手首がなくなっていて、代わりにそこからぼたぼたと大量の血が床に滴り落ちた。
「う!」
ラルフはその光景に吐き気をもよおし、片手で自分の口元を押さえて目を逸らす。その目を逸らした先には、ラルフが先ほど叩き落したその男の手と、そこに握られたままの剣が無造作に転がっていた。
「ラルフ!!」
不意に飛んできたシェシルの声にハッと顔を上げると、ラルフは身を翻して宿屋の入り口のドアに向かって駆け出した。慌てた兵士たちが手を伸ばしてラルフの襟首を掴もうとしたが、外に飛び出したラルフの速さに追いつくことができない。
大騒ぎになっている宿屋の入り口周辺には、野次馬と化した街人たちの生垣ができていたが、ラルフが抜き身の剣を握ったまま外に飛び出してきたが為に、みな血相を変えてあたふたと逃げ出す。
入り口に繋いであった馬に飛び乗ると、縄を切ってそれをぐいっと引いた。男たちの大声と血の匂いに怯えたのか、馬は大きく嘶くと、ラルフの体を跳ね上げながら、街の中心に繋がる道を駆け始めた。
「ま、待て!」
兵士たちが鎧を身にまとって重くなった体で、必死に追いかけてくる。
ラルフは首を横に振りながら走る馬に叫んだ。
「そっちじゃない!」
暴れながら人通りの多い道を走ってくる馬を見つけた人々が、慌てふためいて道をあける。
「きゃあぁ!」
「なにするんだ!」
突然起こった騒ぎに街中が大騒ぎだ。ラルフは馬の背に身を伏せて、その人ごみの中を駆け抜けた。
――このまま、広場を抜けて街の反対側へ出るか。
女が逃げ惑い、露店で店を出していた男のテントを引き倒しながら、マスターブリッシュの店アフィシオンの前まで来たとき、ラルフは身を起こして馬の切れた綱を力任せに引っ張った。
――だめだ!まだあそこにはシェシルがいる!
ラルフが道の真ん中で馬をぐるりと方向転換させるのを、街の人たちは呆然と見つめていた。
道のいたるところに、飛び散った果物やら、テントの残骸が見える。ラルフは口をぎゅっと引き結ぶと、元きた道を再び走り出した。
「なんだ!?」
「なっ、なにしてやがる!」
ラルフは、戻ってきた自分を唖然と見つめる兵士たちの横をすり抜け宿屋を目指す。宿屋の前では案の定、兵士たちがシェシルに斬りつけられて負傷し、逃げるようにわらわらと飛び出てきた。
「シェシル!!」
ラルフは声の限りに叫んだ。
「シェシル、早く!!」
馬を止めるわけにはいかない。シェシルを拾うには、この一瞬しかなかった。
「シェシル!」
宿屋の入り口から、グレーの光りを放つ人影が、地面に転がる兵士を追いかけるように飛び出してきて、無遠慮なほどの殺気を帯びたアメジストの瞳でラルフを睨みつけた。
「馬鹿、なぜ戻ってきた!」
ラルフがシェシルに手を伸ばすのを、苦々しい表情で見つめ、シェシルはタイミングを計り腰を落とした。
「いいから早く!」
シェシルは地面を蹴る。
「言われなくてもそうするわ」
そう聞こえた頃には、シェシルはラルフの背後に飛び乗っていた。相変わらず恐ろしいほどの跳躍力。そのまま二人はラドナスの街の門を抜け、暗闇の広がる街の外へと飛び出していく。
「ったく、お前は無茶ばかりしやがって!」
シェシルはラルフの手から手綱を奪い取ると、馬の首にそれを当てた。後ろを振り返ると、兵士たちがあたふたと追いかけてくる姿がだんだんと小さくなっていった。
ラルフは、自分の手にしっかりと握られた剣を不思議そうに見つめた。あまりの緊張に、これの重みを忘れていたようだ。シェシルもそれに気がついたのか、手を伸ばしてきて、剣の柄を握りラルフの手から引き剥がす。
「ほんとうに、お前は無茶ばかりする……」
シェシルのため息がラルフの首筋にかかった。