第四章 霧の中夢の中 5

■4-2 霧煙る国境

 ラルフとシェシルを乗せた馬は、ラドナスの街を飛び出すと、しばらく南へ向かっていたが、街の明かりが見えなくなった頃にラドナスを迂回する形で北に進路をとった。
 ラドナスの街から北は、テルテオに続く森が広がり、さらにその先にベチカ山脈がそびえている。二人はその北に広がる森を超え、ノベリアとコドリスの国境地帯、ベチカ山脈の麓に沿って、西に向かおうとしていた。
 シェシルは、馬を走らせながらラドナスの街の方を振り返ったが、ノベリア兵の追っ手が来ないことを確認すると、やっと馬の歩調を緩め緊張を解いた。
 ノベリアの兵士はシェシルの存在に怯えて追跡を諦めたのか、月の出ない暗闇の夜では追うのも困難と判断したのか。
「ふっ、あいつら夜の追走はあきらめたらしい。ま、この月無し夜では仕方ないだろう。私たちは運が良かったんだろうな。
 それに、街の外を探すのにいささか手勢が少なかったようだな。しばらくは追ってはこないか……、それにしても……」
 シェシルは、いきなりラルフの頭をぐいっと鷲づかみにした。
「いたっ!痛いってばシェシル!!」
「何が痛いだ。剣を抜くなとあれほど言ったのに抜いて振り回すし、馬で戻ってくるし!
うまく逃げられたから良かったものの、あのまま捕まっていてもおかしくはない状況だったんだぞ!」
 ラルフは身をよじった。
「だって!どこまで逃げていいか分からなかったし。それに!俺だっていつまでもシェシルに守られているだけのガキじゃないんだ!」
 シェシルはラルフの言葉を聞いて鼻で笑う。
「ガキなんだよ!そういうのを身のほど知らずって言うんだ。……でも、まあ助かった。この荷物を担いでちゃあ、なかなか遠くへは歩いて逃げられないからな」
 少し柔らかな声色でシェシルは言うと、ラルフの頭から手を離し、手綱を握りなおした。

 ラルフはそういえばと口を開く。
「……ごめん、シェシル。あのナイフ……、気に入ってたんだろう?ほら、俺を助けるのに、あいつらに投げつけた……」
 宿屋のカウンターでラルフを殺そうとした兵士の首に刺さった大振りのナイフを思い出したのだ。シェシルは兵士たちと組み合いながらも、そのナイフを投げて、ラルフを助けたのだ。
 一瞬、シェシルが考え込んだのだろう。間がある。
「……ん?ああ、それなら、宿屋を飛び出す前にもう回収している。ついでに、お前が使いっぱなしにしていた短剣もな」
 そういうと、ごそごそと腰の辺りを探ってから、ラルフにほらっと手渡した。
 ラルフの目の前で、暗闇の中でも薄っすらと光る短剣の刃が揺れる。シェシルとラルフの長剣も、この暗闇でも光る金属ガウリアンでできている。
「これはお前が使え。鞘はまだ持ってるんだろう?腰に下げておくといい。これなら今のお前にもちょうどいい長さだから、いざという時に役に立つ」
 ラルフは慌てた。
「え!でも、これガウリアンだよ。すごく高価なものなのに……」
「ばか。高いかどうかじゃないんだよ。武器の価値なんてものは、切れるか切れないか、役に立つかどうかということなんだ。身を守る為のものに安い高いは関係ない。いいからさっさとしまえ。その光りは、これだけの闇の中では目立つ」
 ラルフは礼を言いながら、大人しく腰のベルトに差してあった鞘へ収め、留め金をパチンと絞めた。
「それと、お前の剣の特訓もしないといけないな。さっき宿屋で見ていて、肝が冷えたぞ。ひどいなんてもんじゃなかった」
 シェシルの言葉に笑いが含まれている。ラルフは顔が赤くなった。
「う、ううるさいな!仕方ないだろう。必死だったんだし」
 ――こんな経験したことないんだ、当然じゃないか!
 ラルフはふて腐れながらも、胸のうちでは心なしか期待にむずむずする気持ちが沸き起こってきた。
 ――シェシルが稽古をつけてくれる。
 それだけで、ラルフは自分がとんでもなく強くなることができるのではないかと思えてしまう。そのくらい、ラルフにとってシェシルの剣技とは神業のように強く、真夏の太陽の光りのように眩しいものなのだ。

 二人を乗せた馬は、ラドナスの北に広がる森へと続く小道に入っていく。小道といっても、テルテオの民が使っていた猟師たちが通う細い獣道だ。馬がどうにか一頭通れるほどの道幅しかなく、頭上は低く密に茂った枝葉が二人の額を打った。
 少し森へと分け入ったところで、ふいにシェシルが馬の足を止め後ろを振り返った。
「……馬がこっちに来る……」
 シェシルの潜めた声が、妙に生温い空気を抱き込んだ森の中で、重々しい緊張をラルフにもたらした。
 シェシルは手で――お前はここにいろ――と制してから、音も立てず馬から飛び降りると、忍び足でもと来た道を身を伏せて歩いていった。ラルフの耳にも、近づいてくる馬の蹄の音が届いてきた。ラルフは馬のたてがみに顔をつけ身を伏せると、暗闇に木々の間から草原の方をじっと見やった。
 どうやら、その馬の主は片手に小さなランプを下げているらしい。ラルフの見つめる木々の間から、その頼りなげなほど小さな明かりが暗闇の中で揺れていた。
 シェシルは木の陰に隠れながらそれを待ち伏せた。徐々にその足音が大きくなってくる。ざりっざりっと石を踏む音が近くなってきて、フードを目深に被った馬上の人影を確認することが出きた。人影が、馬の足を緩めてゆっくりとこちらに近づいてくる。何かを探すような、辺りを見渡すしぐさをしながら、時折手に持ったランプを揺らす。
 馬の影がシェシルの隠れている木のところまでとどいたその時、シェシルが馬の前に飛び出した。シェシルが宙へと抜き放った長剣が、燐光のように美しくまばゆい光りを一瞬放った。
 驚いた馬は前足を蹴り上げ、大きく嘶き首を振って暴れだした。
「うわぁ!」
 乗っていた馬が突然暴れだしたのと、目の前に人が飛び出してきたのに驚いた馬上の人影は、馬のたてがみにしがみつくこともできず、弾かれたように背中から地面に落下した。
 手に持っていたランプが地面に転がり、ふっと周囲が暗闇に包まれる。その暗闇に薄い燐光を放つシェシルの剣と、興奮に鼻息も荒く見開かれている馬の目だけが浮かび上がった。
 シェシルの剣がフゥンという音を立て、地面に転がっている人影に向けられる。
「どういうつもりだ、お前」
 シェシルはため息交じりの怒りがこもった声で、人影に問いかける。暴れる馬の手綱を器用に引き寄せ、足元に転がっている人影を蹴った。
「いてぇ……、もう酷いなあ、姐さんは……」
 この声には聞き覚えがあった。ラルフは慌てて馬から降りるとシェシルの方へと駆け寄る。もぞもぞと体を動かしながら、人影が起き上がり、いててとうめきながら目深にかぶっていたフードを払った。
「……インサ」
 名前をつぶやきながらラルフの表情も曇った。
「よう、ラルフ。元気だったか?」
 この闇には似合わないほど、やけに明るい声だ。まるで朝の挨拶のようにも聞こえる。

 周囲には、先ほどインサが手にしていた獣脂のランプの匂いが漂っていた。草むらに転がったランプをインサは引き寄せぶつぶつ言い始めた。
「本当、酷いぜ、姐さん。これ高かったんだぜ。二人のために買ってきてやったのに……」
 シェシルは降ろした剣先を再び持ち上げ、インサの喉元に突きつけた。
「なぜ追ってきた!」
「わあ!もう、姐さん、そんな怖い顔で睨まねえで下さいよぅ」
 怒鳴りつけられたインサは、頭を抱えてその場に縮こまった。しかし、頭を抱え込みながらも、自分の体の下からこちらの様子を伺っている。油断のならない奴だ。シェシルはため息をつきながら声を和らげもう一度尋ねた。
「だから、なぜお前は私たちを追ってきたんだ?」
 インサはそろりと身を起こし、引きつった笑みを浮かべて口を開いた。
「お供、しようと思ってさ」
「何だと!?」
 シェシルはインサの喉元に突きつけていた長剣を地面に突き立てると、我慢ならないとばかりにインサのフードを掴んで引きずり起こした。
「これ以上お荷物が増えるなんて冗談じゃない。元のねぐらに帰れ!」
 押さえ込んだ怒りに、瞳がぎらついている。ラルフはシェシルを止めようと腕に触れたが、シェシルはそれを振り払い、インサの体を地面に投げつけるようにして手を離した。
「私たちは遊びで逃げているわけじゃないんだぞ。命を狙われているんだ。さっきの騒ぎを見ただろう!退屈しのぎのつもりで軽々しく言うな!」
 しかし、それでもインサは引き下がらなかった。その場から立ち去ろうと背中を向けたシェシルの足首を掴むと、頭を擦り付けて連れて行ってくれと何度も繰り返し呟いている。
 先ほどの気軽さとは一転、その懇願には必死さがにじみ出ていた。
「ふん、話にならん。いくぞラルフ」
 ラルフもここで置いていくのはインサの為だと背中を向けた。そんな二人の後姿に、インサの言葉が飛んでくる。
「こ、ここから先は、コドリスとの国境地帯になるよ!町も村もしばらくはないんだ。そうしたら、食料だって手に入らねえ。
 あんたたち、さっきの騒ぎで食料買い損ねてるんだろう?おれ、沢山買ってきたんだ。ほら!見てくれよ」
 シェシルが振り返ったことに気をよくしたのか、インサはなおも話し続けた。
「それに、さっきのノベリアのやつらがあんたたちを追いかけてこられないように、ラドナスの外に繋いであった馬を全部放してやったんだぜ。どうだい、役に立つだろう?」
 シェシルは鼻で笑う。
「ああ、それはご苦労さん」
「姐さん、そんな冷たいこと言わないでくれよ。おれ、この食料買って、もう文無しなんだよ。なあ、連れて行ってくれよ」