第四章 霧の中夢の中 6
シェシルは冷ややかな何の感情も含んでいない声で、インサに問うた。
「金の出所はどこだ」
インサはびくりと体を震わせて、おずおずと懐から軽くなった皮の袋を取り出す。
「どうせ、私たちの情報を売ってノベリア兵から金をせしめたんだろうが」
「すまなかったって思ってんだ。ラドナスの門番に、おれとラルフが一緒に居たってノベリア兵に密告されて……。ラルフの居場所を言わないと殺すって……。この、残った金は姐さんに渡すから」
インサが差し出した皮袋をシェシルは片手で払いのけた。
「それ以上何か言ってみろ。その首、へし折るぞ」
インサは地面にぽとりと落ちた皮袋を拾い上げ、ぎゅっと握り締める。インサが涙を浮かべてその場に突っ伏し、シェシルに何度も頭を下げるのを見つめながら、ラルフは何とか連れて行ってあげられないのかとシェシルに声をかけた。
「シェシル、折角こうして危険をおかして食料を買ってきてくれたんだし……」
「お前も!いい加減そのお人好しをなんとかしろ!」
そんな自分から遠ざかっていく二人のやり取りを背後で聞いていたインサが、たまりかねたように大声で叫んだ。
「カリシアに両親がいるんだ!」
ラルフはその必死さにどきりとして振り返る。それとは対照的にシェシルの声が低くなる。
「だからなんだ」
「両親に……会いたいんだよ」
「そんなもの、私たちには関係ない。そもそも信用できると思うのか?人のものを盗んで、人を金で売るような奴の言うことなんか」
ラルフは仕方なくシェシルとインサの間に割り込み、インサが乗ってきた馬の鼻を撫でた。
「でもシェシル、俺たちには、インサが言うとおり食料が必要だよ。このまま国境地帯を行くつもりなら、戻って食料を買うか、望みを託してコドリス側へ抜けて町か村を探すしかないよ」
シェシルが危険な色に輝くアメジストの瞳で振り返り、ふっと口元に笑みを浮かべると、インサへと歩み寄った。
「なるほど、お前はここでこいつを消せば、この食料は私たちのものと言いたいんだな。いい考えだ、頭が回るようになったじゃないか、ラルフ」
「ええ!そっ、そんなこと言ってないよ!」
シェシルの手が、問答無用にインサの襟首を掴んで引き寄せた。
「あ……あぅ……」
インサは顔を蒼白にして、シェシルの手の内でぶるぶると震えていた。シェシルの空いているほうの手が、腰に下げられたナイフの柄へと伸びる。
「シェシル!」
ラルフは、今にもナイフを抜こうと力のこもったシェシルの腕に慌てて飛びついた。そんなラルフの顔を覗きこみ、シェシルのアメジストの瞳がふっと緩む。そして短いため息と一緒に――そのお人好しが、その内命取りになるぞ――と呟くと、インサの襟首から手を離して、その手でラルフの頭を叩いた。
「痛!……え?」
さっさと大股で森の中に入っていくシェシルの背中をラルフとインサは二人で見つめた。
「い、いいの……。姐さん」
「いいか!連れて行ってやる。その代わり、少しでも疑わしい行動を取ったり、足手まといになりそうだったら、すぐに殺す!」
インサの表情がぱっと明るくなった。
「ありがとう!姐さん!」
「姐さんって呼ぶな!」
ラルフは、シェシルが荷物を二頭の馬に移し分けるのに手を貸しながら、シェシルに笑いかけた。
「なんだ!」
むすっとちょっとすねた様な顔が、やけにかわいらしかった。ラルフはシェシルが照れ隠しに怒鳴り散らしているのだと気がついたのだ。
「シェシルって、お人好しだな……」
「お、お前と一緒にするな!」
ラルフはシェシルの優しさを分かっていた。シェシルもそんな自分のギャップに気がつき、らしくないとでも思っているのだろう。しかし、ラルフにはそれがとてもシェシルらしいと思うのだ。
「頼まれると、断れない性質だろう?」
「っとに、お前はなぁ、少しは自分の置かれている状況を把握しろよ。子供のピクニックに行くんじゃないんだぞ」
シェシルが脱力して肩を落とし、馬に跨るのを見ながら、ラルフは笑いをこらえるのに必死だった。
ラルフたちは森に分け入り、ベチカ山脈群に属する山々の峰を登り始めた。鬱蒼と茂った森を一旦抜け、垂直に切り立った岩場に囲まれた渓谷に分け入ること三日目にしてようやく追っ手を振り切ることができたと、シェシルは判断したようだった。
黒々とした原生林に守られるようにして、透き通った水を絶えず山肌に伝わせ続ける渓谷を抜けると、足元は大小さまざまな岩に覆われ、ところどころに低木の常緑樹しか生えていないような荒涼とした景色へと変化していった。
三人を悩ませたのは歩きにくい足元だけではない。突如として発生する濃い霧が、一寸先も見通すことができないほどに辺りを多いつくすことが増えたことも、前進を遅らせる原因になっていた。
「上昇霧だよ。きっと、草原地帯が雨季に入ったんだ。南風に乗って、その湿った空気が山肌を駆け上がってきているんだよ」
と、ラルフはもうすぐこの辺りにも雨季がやってくることを予測した。
それならば、なおさら急いでここを抜けなくてはならない。ノベリアの国土に降り注ぐこの雨期の頃の雨は、昼夜を問わず降り続き、旅人の行く手を阻む障害としても有名だ。三人は濃密な重苦しい空気に包まれながら、手探りをするように前へと進んでいくしかなかった。
湿った重い空気が、辺りを包む闇の中を漂う頃、ラルフは野営している草地の脇を流れる小川に布を浸した。小川の水は、ベチカ山脈の頂上、万年雪から溶け出した雫が岩の間に滲みこみ、また別の岩間から湧き出して流れているのだ。
「なあ、そんな激しい剣の稽古、なんの役にたつんだよ」
ラルフが腫れ上がった腕の黒あざに、水に浸した布を押し当てている横で、インサが干したパルチという小魚の頭を口に放り込みながら尋ねてきた。ラルフは痛みと自分への歯がゆさで思わず顔をしかめた。
「……なんのって、戦うために決まってるじゃないか」
何気なくつぶやいたラルフの言葉に、シェシルの眉根が一瞬寄るが、焚き火の前にうずくまる二人には見えるわけもない。
最近のラルフの体には生傷が絶えない。なぜなら、移動の合間にシェシルに剣の使い方を教えてもらっているからだ。
シェシルの教え方は実践的で、理屈は感覚で体に覚えさせるものだという考え方のようだった。ラルフが剣を構え、シェシルが木の枝を振りながらこちらを見つめる。ただそれだけで、ただならぬ威圧感と恐怖心がラルフの心臓をつかんで放さないのだ。
不思議なことに、シェシルの握る木の枝は、ラルフの剣に触れても切られて短くなることはない。シェシルがラルフの剣に触れる瞬間に、角度を変えて剣の腹を弾くように押し戻すからだ。十分もすると息が荒くなって、汗がこめかみを伝い地面へと吸い寄せられるように滴り落ちる。しかし、シェシルは息が上がるどころか、むしろリラックスしてくつろいでいるようにも見えるのだった。
「私の剣先を目で追うな」
シェシルがそう言った瞬間、ラルフは足元をすくわれ気がついたときには地面に突っ伏していた。
シェシルは剣術だけではなく、体術においても熟達している。シェシルが振る剣筋にばかり目がいっていると、あっという間に足を払われてしまうのだ。
「自分の体の大きさ、剣の長さを体に教え込むんだ。それを感じることができたら、不用意に私の間合いに自分から踏み込んでくることもない」
ラルフは体の痛みと共に、シェシルの言葉を、動きと剣の重みを覚えていく。