第四章 霧の中夢の中 7

「剣という武器は、相手だけではなく自分の身をも対等に傷つける。だから、己の弱さを知ることが一番大事なんだ」
 シェシルは焚き火にさっきまで握っていた木の枝を投げ込み、ルシュタンというコドリスの甘味のある茶を作るために、湯を沸かす準備を始めていた。そんなシェシルを見つめながら、ラルフはずっと気になっていたことを口にした。
「……シェシルは誰に剣術を教わったの?」
 どうしてシェシルはそんなに強いのか、いつから剣を握っていたのか知りたかったのだ。
「誰ってこともないが、基本はノリスだろう。最もそのときはたしなみの一つ程度のものだった。体術は私を拾ってくれたデナル人の傭兵の男が、メルタナンの使い手だったから」
 先日の宿屋での乱闘の際、シェシルが短剣を脇にひきつけるように構え、体を武器に兵士と組み合っていた光景を思い出した。ラルフはその体術の名を知っていたが、実際どんなものなのかは見たこともなく、まさかシェシルの動きがそれだとは思いもしなかった。
 あれが、砂漠の民の体術、メルタナン……。砂漠に住む体長二メートルは越すといわれる獰猛(どうもう)な狼ガイダをも倒すという、プリスキラ大陸最強の武術だという。

「ノリスはその頃から強かった?」
 シェシルはふと笑みをこぼす。その瞳には懐かしむような優しさが潜んでいた。
「ノリスが?……さあ、どうだろうね。強かったんだろうと思うよ。剣を握ったときだけ流麗な身のこなしだった。まあ、私には真剣に剣術の手ほどきをしようなんて、これっぽっちも思ってなかったようだから、いつも体の力が抜けていたってことなのかもしれないけど」
 流麗な身のこなし。
 シェシルの体の動きは、まるで草の上をそよぐ風のように軽く滑らかだ。それは激しい斬撃の奥に潜む静寂のごとき狂気を思わせる。瞳の中にちらちらと揺れ続ける殺気。なぜ、そこまで強くあらねばならないのかと思うほどに。
「強いなんてのはね、あてにならないものなんだ。いくら技術を磨いたって、あっけなく命を手放すときもある。お前は戦うために剣術の稽古をしているというけれど、そんなもんじゃ強くなれないよ」
 シェシルの手元からルシュタンの花のような芳醇な香りが柔らかく漂ってくる。その香りの柔らかさが、穏やかに炎を見つめながら話す、シェシルの声音に重なっていく。しかし、ラルフはシェシルの言葉に身を硬くした。
 ――そんなものでは強くなれない……。
「どうしたら強くなれるの?」
 全身にあざを作って、痛みに耐えながら必死に剣を振る。辛く逃げ出したい気持ちに鞭を打って強くなりたいと願うのに。それだけではだめなのか。
 ラルフの切迫した声に、シェシルは顔を上げてじっとラルフの目を見つめた。シェシルのアメジストの瞳が、黄金を溶け込ませ、揺らめくように輝いている。その輪郭がふっと緩むと、シェシルはラルフの頭を抱き寄せ、頭を撫でながら耳元でささやいた。
「焦る必要はないよ。それに、そればかりは私が教えてあげられることじゃない。自分で気が付かなくちゃならないんだ。今は、その決意を大事に持ってるんだよ。それは強さへの糧だからね」
 剣を握り続ければ、いつか必ずわかる時が来る。知りたくなくても、それが最も身を切るほどに辛いことでも、否応なく自分自身を傷つけても。
「前だけ見ていろ。なにものも見失わないように……」
 ――そう、その時に、もしも私がお前のそばから消えていても、お前はそれを乗り越えなくちゃならない、ひとりで。

 シェシルのつぶやきに潜ませた想いは、ラルフにはまだ届かない。しかし、シェシルの声音に溶け込んだ切なさは、ラルフの心にゆっくりと波紋のように広がるのだった。



■4-3 不穏な進行


 霧深い国境をラルフたち一行は進んでいた。やがてベチカ山脈が途切れ、コドリスとノベリアとの国境関門が現れると、三人は一同に安堵の表情を浮かべた。ここ二日間は、ラルフの読みどおり、雨季が到来したことを告げる細い雨が昼夜を問わず降り続き、足元をあっという間にぬかるみに変えていた。
 空を見上げても、分厚く垂れ込めた鈍い鉛色の雲が太陽や月を隠してしまい、方向を見失いそうになっていたのだ。

「関門にノベリアの兵士はいないようだ。でも、コドリス兵が物見櫓から、ノベリア側も監視しているのが見えた。夜のうちに、闇にまぎれてコドルに入るしかないな」
 関門に近づいて様子を見に行っていたシェシルは、戻ってくると馬の背に乗せていた荷物を降ろし始めた。
「コドル山脈は、プリスキラの中でも最も切り立った山脈だから、馬は連れてはいけない。正規ルートの山道を行けない私たちは、山肌をよじ登っていかなくちゃいけないから、なおさら無理だろう。オルバ山を越えれば、町があるから、そこでまた馬を調達することにしようか」
 ここまで従順にしたがって一緒に山道を歩いてきた馬たちと別れるのは、少し寂しい気がしたが、これからの道筋を想像すると連れて行くのは到底不可能だ。
「おれが関門の厩にこいつらを売ってくるよ」
 そう言ってインサは、甘えて鼻をすり寄せてくる馬のたてがみを、名残惜しそうに撫でてやりながらぽそりとつぶやいた。関門の脇には、商人や旅人が休息を取ったり、旅支度を補充するための小さな集落がある。そこへいけば、馬も売れるはずだ。
「私たちはここで、夜になるのを待つから、お前はさっさと用をすませてくるんだ。……わかってるんだろうね、変な気を起こそうもんなら……」
「わ!わかってるよ!……ちぇっ、信用されてねえなぁ……、おれ……」
 インサはシェシルの脅しにびくびくしながらも、口をすぼめていじけた表情のまま、馬の手綱を握り締め、二頭を連れて関門のほうへと歩いていった。
「まあ、あいつなら、馬泥棒が小銭稼ぎにやってきたってくらいにしか疑われないだろうよ」
 シェシルがふっと笑ってインサの後ろ姿を見つめる。
「……それはそれで、問題じゃないか?」
 と、ラルフは少し慌てたが、もしなにか疑われるようなことがあっても、インサなら口八丁手八丁で切り抜けてくるのは、安易に想像できた。

 二時間もすると、インサは一人きりで関門から戻ってきた。ちゃっかりと何かを調達してきたらしく、背中に大きな荷物を背負っている。周囲を気にしながら、シェシルとラルフが待つ森の中へと慎重に歩いてくる。
「多分、怪しまれなかったと思うよ」
 インサは背中の重そうな荷物をシェシルとラルフの足元にどさりと下ろして、その場にしゃがみこんだ。
「重てえ……」
「なんだよ、この荷物は」
 ラルフは肥料袋を利用した、はちきれんばかりに膨らむ荷物の袋を見下ろす。
「姐さんの乗ってた馬の代金はこれさ」
 インサが懐から金の入った袋をシェシルに手渡す。
「な、ちゃんと間違いないだろう?」
 インサはちょっと上目使いにシェシルの顔色を伺うような視線を送るが、シェシルは金の入った袋の重さを手の中で確かめただけで、自分の荷物の中にそれを押し込めた。
「おれの乗ってた馬の代金で、食料と雨よけのマントを買ってきたんだよ。コドルの山ん中に入ったら、今までみたいに焚き火を焚いたりする場所なんてないかもしれないだろう?雨風がしのげる場所が見つかるかもわからないからさ」
 荷物の袋をといて、インサは三人分の雨よけのマントを取り出した。このマントは、分厚いツロ綿のごわごわとした布に、鉱石油をたっぷり染み込ませた、どっしりと重たいものだった。
「……インサ、なんでそんなにコドルのことに詳しいんだよ」
 インサから受け取ったマントを背中に背負い、フードを目深に被ったラルフは、インサがこれから行くコドル山脈の状況にやけに詳しいことに気が付いた。
「ああ、おれはオルバ山の麓の町の産なんだよ。知ってるか?旨いりんご酒を生産してるベリドルって町」
「町の名前は聞いたことがあるけど……」
「ベリドルはここからだと、第二都市のオルバーを越えて、オルバ山を下った先にあるんだ。すぐ北はまだコドル山脈がそびえてる。ドルテナ山とアンバティナ山の山頂も見渡せる場所さ。おれは、ガキの頃そこで育ったから、コドルのことはよく知ってる。山岳地帯が広がっていて、山道も険しいんだ」