第四章 霧の中夢の中 8

 シェシルも、インサが買ってきた新しい雨よけのマントを、自分の背中に背負った長剣をすっぽりと覆うように肩にかけ、フードを深く被って首の部分に付いた金具をパチンととめる。シェシルは旅人だ。このくらいの装備を常に持っているはずだが、インサに文句一つ言わず黙って新しいマントを身につけている。
「雨季に入ったんならなおさらだよ。多分今日当たり、夜は強い雨が降るんじゃないか?」
「……きっとそうだろうな。ノベリアの雨季は昼夜問わず雨が降り続けることで有名だが、ことさら夜は強い叩きつけるような雨が降る。十分な装備があればそのほうがいい」
「お!姐さん、おれのことちょっとは見直してくれたってこと!?やっぱ、おれって役に立つでしょ」
 シェシルは冷たい視線をインサにちらりと向けた。
「くだらん」
 以前引き起こした事が事だけに、インサはまだまだ信用されなさそうだ。
「……そんな……冷たいなぁ」
 三人は肩を寄せ合い、木立の影にしゃがみこんだ。ここで仮眠を取って夜まで待とうというわけだ。夜になればコドル山脈の中へと入り、関門から遠ざかるため、しばらくは歩かなくてはならない。
 シェシルはもちろんインサも、この山越えが過酷な道のりになるのはよく分かっていた。ここで無理やりにでも眠っておかないと、体が持たないのだ。時折頭上から落ちてくる雫がフードを叩く音が、静かにあたりに落ちる。その音に耳をすませているうちに、三人はうとうとと夢の中に滑り込んでいった。



「ニーラム!」
 その悲痛な叫びが、自分の喉から絞りだされたものとは信じがたいほどだった。シェシルはおびただしい幾人もの血が染みた泥水の上に突っ伏し、今しがた自分が立っていたところで、一人の男が棒立ちになっているのを目撃した。
 ――……これは、あの時の。
 もう一人のシェシルが、その光景を遠巻きに見ている。まるで他人事のように醒めた目で、それが以前自分の身に起きたことだと知っている。そして、いつかはニーラムも自分もこの時を迎えるのだと分かっていた。
 ――ああ、夢か。
 シェシルは、返り血と泥にまみれ必死な形相で駆け出す自分を見ながらつぶやいた。
 ――そうだ、これも始まりの一つ……だった。
 帰るところを失った自分を拾い、傭兵の世界へと導いたニーラム。そして、自分の代わりに死んだ男。
 シェシルは泥を跳ね上げ、獣のようにうなり声をあげて剣を振り上げた。ニーラムの背後、本来ならば自分を狙って近づいてきた男の首を切り落とす。それだけが目的の動きだ。
 男の剣は、ニーラムの腹部に深々と刺さり抜くこともできず、シェシルの斬撃を受け止めることも避けることもできなかった。
 どさりと、胴体がひざを折りその場に無残に転がる体。そうなれば、戦場ではすでに人でもない。ただの肉塊だ。
「ニーラム!」
 シェシルは今しがた自分が切り倒した者への余韻などかなぐり捨て、その横に横たわる男の体を抱き起こした。
「待ってろ、今、誰か呼んでくるから!」
 浅黒い肌のデナル人の男。シェシルを拾って五年間、戦場を渡り歩いた傭兵。いつかは戦場で死ぬ運命を背負った孤独な人生。
「……ばかだなぁ、こんな有様じゃあ、もう助からないだろうが」
 優しげなオリーブグリーンの瞳が宙を彷徨い、隣に転がっている死体を見てふっと笑った。まるで野に咲く一輪の可憐な花を見つけたかのように、その表情は穏やかで慈愛に満ちていた。
「ほんと……うに、お前は容赦がない……」

 ――悪魔のような子だ。

 初めて出会った時に、そうニーラムが笑いかけた言葉がそれに重なる。
「そ……んな、ニーラムが死ぬなんて」
 こんなにも死が身近な場所で、それでも目の前に横たわる男が死ぬなんて信じられない。それも自分のためにだ。シェシルの声は囁きでしかない。
 昨晩、傭兵部隊に敵軍の奇襲があった際、シェシルはその奇襲にいち早く気が付き、ほぼ一人で向かえ打つ形となってしまった。仲間の援軍がすぐに到着したのだが、シェシルはその時肩とわき腹に深手を負ってしまったのだ。
 その傷が痛み、動きが鈍ったところを襲われ、そばにいたニーラムがシェシルをかばって刺された。
「ああ、オレは死ぬよ。でも、人として死ねる」
 ニーラムの目がうつろになってきた。
「傭兵は人なんかじゃないからな。でも、オレは幸いお前のために死ねる幸運を掴んだんだ」
「何言って……」
 シェシルの手が震えだす。もういつものように、冗談を笑って受け止める余裕がなかった。
「……シェシル、悪かったなぁ」
 ニーラムがぽつりとつぶやいた。
「もう、こんなに逞しく育っちまったら、……今更嫁の貰い手も見つけてやれんなぁ」
「ばか……」
 シェシルの顔が泣き笑いに歪む。
「綺麗なドレスを着て、好きな男に抱かれて幸せに……。誰かのために生きて、憎しみなんて捨てちまえ……今からでも遅くはないんだぞ」
「何言ってるんだよ、私がドレスなんて着たら滑稽じゃないか」
 ニーラムの血だらけの手が、シェシルの頬をすっと撫でた。
「いいや、……お前は黙っていりゃあ、そんじゃそっとじゃお目にかかれない美人なんだから。もったいないじゃないか。誰かのために生きろよ。それにあれがいい……、似合うぞ、ほら、今日の空みたいな、真っ青な空色のドレスだ……」
「……ニーラム……、今日の空は曇りだよ……、ニーラム」
 シェシルは思わず天を仰いだ。ニーラムが今日の空は青いと言えば、そうなるんじゃないかと一瞬思ったのだ。
 腕の中にずしっと重みがかかる。人は体から魂が抜けると、残された肉体が重みを増す。

 ――誰かのために生きろよ……か。
 もう一人のシェシルはつぶやいた。
 ――ニーラム、私はあんたの遺言どおり、今は人のために生きてるよ。だから、私も人として死ねる。あんたみたいにね。