第四章 霧の中夢の中 9

 シェシルはふと目を覚ました。すぐそばで何かが動く気配がしたからだ。相変わらず雨は降り続いている。雨脚が強まってきているところを見ると、夜も近いということだろう。頭上の木の枝から、寄り集まって大きくなった雨粒が、ばらばらと音を立ててシェシルのフードを叩いた。
「シェシル、起きたの?」
「ああ」
 先に目を覚まして干し肉を袋から取り出していたラルフが、身を起こしたシェシルに大きなそれを手渡した。
 ぐっすりと寝込んでいるインサを揺り動かして、ラルフが声をかけているのを横目で見ながら、シェシルは干し肉を口にくわえたまま、懐から皮帯とツロ綿の細い帯を取り出した。
 革帯は、なめし皮に金板を裏打ちした手首を保護する道具だ。まずはツロ綿の白い帯を手の甲に丁寧に巻いていき、腕の中ほどまで覆うと手早く止める。剣を握ったときに、柄に伝ってくる血で剣がすべるのを防ぐためだ。手首に革帯を巻きつけ、手を握ったり開いたりして具合を確かめた。
「それは何?」
 ラルフがシェシルの手元を覗き込む。
「中に金板が入っているんだ。手首を保護するのと、ちょっとした攻撃も受け止められる」
 シェシルが革帯の手首側に押された小さな焼印を見て目を細めた。
 ――Cへ N。
 バラの花の模様の中心に、小さなアメジストが埋め込まれていて、その脇に小さくイニシャル。
 ――シェシルへ ニーラムより。
 ニーラムはやけにこの装飾にこだわっていた。ニーラムがシェシルのために作って贈ったものなのだ。
 ――こんなもんでも、着飾っておかなくちゃな。お前は女なんだし。
 照れくさそうに笑ったニーラムの顔が思い出され、懐かしさで胸が痛んだ。先ほど見た夢の余韻が、シェシルの心を揺さぶっている。
 インサがよろよろと立ち上がり、大きな荷物を背負ったのを見届けると、シェシルも立ち上がった。誰もが過去の自分を超えて今の自分になるのだ。今の自分は未来の自分への糧になる。
「さて、行くか」
 三人は降りしきる雨の中、森の中を歩き始めた。



 コドル山脈に分け入って数日、三人は道なき道をただひたすらにかき分けて進むしかなかった。頭上をさえぎる針葉樹の枝、どんよりと雨雲が垂れ込める空を見上げて、ラルフはため息を吐く。
 ――気をつけないと簡単に方向を見失うぞ。
 しかし、さらに自分の前をずんずんと進んでいく二人に目をやり、ラルフは両の肩ががっくりと落ちた。
「二人とも、早くここを抜けたいのは分かるけど、むやみやたらにただ進めばいいって訳じゃないんだ。ここで道に迷ったら、もう絶対に抜け出せないよ」
 三人が今いる位置は、コドル山脈の標高の低い森林地帯とはいえ、草原地帯からも、街からも最も遠い場所だと思われた。ラルフが知るテルテオの南側に広がる彷徨いの森など、さして問題ではないと思えてくる。木々があまりにも密集して生えているため、焚き火を(おこ)して暖を取ることも、しっかり横になって休むこともできず、獣のざわめきに耳を澄ませ、木の幹に体を預けて浅い眠りにまどろむことしかできなかった。
 ラルフのすぐ前を歩くインサが振り返った。
「前に進まなきゃ、どこに進むってんだよ。ここには木しかないんだぜ?」
 三人を取り囲むように生えている木の幹に手を置いて、インサはげんなりとした表情でかぶりを振った。
「オレはここ三日、この三人とこの木の幹しか見てねえよ。」
「川を探すとか、方角を確かめるとか、することはあるだろう?……なんで二人とも……」
 ラルフは口をつぐんだ。
 一番前を歩いていたシェシルが立ち止まり、こちらを振り返ってじろりと双眸を光らせたのだ。

「お前が言う川ってのは、あれのことか?」
 シェシルが三人が立つ斜面のやや下のほうを指差した。
「あ!」
 木々の間から、茶色く濁った川の流れがちらりと見えた。気がついてみると、ラルフの耳にも、微かに水の流れる音が聞こえてくる。
「ほらラルフ!オレと姐さんは何も間違った方向に進んでたわけじゃないって、これで分かっただろう?」
 インサがそれ見たことかとにやりと笑って、ラルフの肩をドンと押した。
「……偶然に決まってるだろ」
「川まで降りてみるか」
 シェシルは、足元に生える下草を踏み分けて、斜面を下り始めた。
「増水してるはずだから気をつけろよ」
 ラルフはその背に声をかけたが、シェシルは背中に担いだ荷物の重さなど気にも留めていないような足取りでずんずんと降りていってしまった。
 ラルフとインサもシェシルに遅れないように懸命に斜面を下り始める。夜半の雨も弱まり、時折薄日が差してはいたが、足元の下草はじっとりと濡れている。ずるずると滑りながら、川岸の手前で立ち止まって川を見つめていたシェシルの背中に、二人はぶつかるようにしてようやく立ち止まることができた。

「どう?渡れそうなの?」
 シェシルは一瞬黙ると、ラルフとインサの肩を押して、自分の背中に隠すようなしぐさをした。
「いや、無理そうだ」
 シェシルがそうつぶやいた時、川上から重々しい足音がこちらに近づいてくるのが聞こえてきた。ラルフとインサは身を硬くして木の幹の影に身をよせ、じっと息を潜めた。その足音はどんどんと近づいてくる。
「……馬だ」
 ラルフの耳元でインサのささやきが聞こえた。馬は五頭で、それぞれ背中に人を乗せている。馬と五人は、木陰に身を潜めているラルフたちに気がつくこともなく、その前を通り過ぎると、しばらく川を下ったところで馬の足を止めた。
 シェシルが軽く舌打ちをする。
「奴ら斥候だな……。野営地でも探してるんだろう」
「斥候?」
 シェシルは、馬から降りてあちこちを見て回る男たちから目を逸らさずに口の中に言葉を含むように話した。