第四章 霧の中夢の中 10

「ああ、まだ後方に部隊がある。先に前の様子を見に行く役目の者の事だ」
「何が起きてるの?」
 シェシルはそれには答えず、さらに身を低くして、目の前を川上に向かって走り去る一頭の馬を見つめた。
「山賊の格好をしてたな」
 インサが小声でつぶやき、シェシルがちらりと振り返った。
「だが、山賊じゃない」

 馬を降りた男たちは何かを話し合っているようだったが、その内の三人がまた馬に跨り、一人は川上へ、後の二人は川下へとそれぞれ駆け出していった。
 シェシルは、身をかがめて目の前を通り過ぎる馬をじっと見つめていたが、少ししかめた表情でラルフとインサを振り返ると再び下りてきた斜面を登り始めた。
「奴らはここで後方の軍が到着するのを待つつもりだろう。私たちはここから離れて川上に移動だ。ここは野営地になるからな、できるだけ離れたほうがいい」
 三人は身を低くした状態で慎重に斜面を登り、野営地から声の届かないところにようやく三人の姿をすっぽりと隠すことができる岩場を見つけ、その足元に身を寄せ合ってうずくまった。
「あいつら、一体なんだろう?」
 今日はもうここで一夜を明かすつもりのシェシルは、荷物の中から油を染みこませた布をつかみ出して草の上に広げている。
「さあな。山賊の風体ではあるが、多分そんな輩じゃないだろうよ」
「ここにどのくらい居るつもりかな」
 ラルフは心配げに、岩場の隅から川岸を盗み見た。
「一晩ってところだろう。野営地があの川岸の広さで事足りるならそんなに大きな隊でもないようだし。なりは進軍中のようだから、先に進みたいだろうしな。……今日は久しぶりに、火の通った温かいものでも口にできるかと思っていたが……ったく」
 シェシルの語尾はぼやきへと変わり、比較的広さのある岩場のくぼみにそのままごろりと横になった。
「進軍?どこに進軍してるっていうんだよ」
 ラルフは驚いた表情で、シェシルのほうを振り返って見たが、シェシルはついっと視線を逸らし、目を閉じてしまった。
「そうだなぁ、このまま行けばオルバーじゃねえか?要塞都市のサンダバトナに行くつもりなら、何もこんなコドルのど真ん中を抜けてく必要もねえし。あいつらどこから来たんだかしらねえが、ここまでは山賊の道を通って来たんだろ。馬に乗って移動するにはそれしか方法はないはずだぜ」
 シェシルの代わりにインサが答える。インサは炒り豆の入った袋の口を開け、ラルフに差し出した。
 ――そうだった。シェシルに訊いたって答えられるわけがないよ。多分、今自分がどの辺りを歩いているかすら、きっと分かっていないんだろうから。
「山賊の道なら多分コドリスにも通じてる。コドル山脈のいたるところに迷路みたいにあるって話しだぜ」
 ラルフは気のない返事をしながら、インサの差し出す炒り豆を一掴み手に取った。
「ラルフ、あいつらはテルテオのことを知っているとは思えないが、不用意に近づくんじゃないぞ」
 ぼそりとつぶやいたシェシルの言葉に、ラルフはぎくりと肩をすくめた。
「言われなくたって、わかってるよ!」
 本当は夜が更けた頃こっそり近づいてみようと思っていたところだったのだ。ラルフは慌てて炒り豆を口に頬張り、シェシルに背を向けて岩場の隅に身を縮めた。

 三時間もすると、夜の(とばり)が辺りに降り、忍び寄る湿気を帯びた空気がより分厚いベールとなって包み込んだ。
 川岸に一人残った男は、川が増水しても大丈夫な場所に穴を掘って、その上に焚き木の山を作り火をおこした。倒木を手早く薪にし、その上に腰掛けて携帯食料を口にしている。焚き木の中に松の木が含まれているのだろう。大きく燃え上がった炎の中で、ぱちぱちとリズミカルに跳ね回る火花の音が、ラルフたちのところまで聞こえてきた。
 ――こいつらさえ居なかったら、今頃おれたちがあの場所で火をおこして体を温めていたのに。
 ラルフは、じっとりと湿気を含んだマントの前を掻き合せた。
 ノベリアの雨季特有の夜の雨が強さを増し始めた頃、川上から沢山の重々しい足音が地響きを立ててラルフたちの居るところへと近づいてきた。シェシルは右肩に長剣を持たせかけるようにして持ち、岩場から少し出た草むらの中から様子を見ている。ラルフとインサは岩場の影から、シェシルの後姿を見つめていた。
 やがて暗闇の静けさに、松明の明かりが溶け出したようにゆらゆらと辺りを照らしだした。十頭ほどの馬にそれぞれ目深にフードを被った男たちが跨り、ゆっくりと川岸を行進してくる。一番先頭の馬に跨る男は、その巨大ともいえるほどの大きな体の背に、これも見たことがないほどの大きな戦斧を革帯でぶら下げていた。
 ラルフの隣で、インサの喉がゆっくりと上下し唾を飲み込む音がやけに大きくラルフの耳を打った。
 気持ちは痛いほど伝わってくる。戦斧を背中に担いでいる男の肩からは、威圧感と強さが強烈に周囲に発散されていた。それはシェシルからも感じられる、圧倒されるような烈風の如き強さと等しいものだ。ラルフの手にもじわりと汗が滲む。
 シェシルは、男たちが野営に焚かれた赤々と燃え上がる炎のそばへと落ち着き、食料を口に運んで談笑が聞こえてくるまで、じっと草むらに身を潜めていた。ようやくラルフとインサの隠れている岩場へと戻ってきたときには、すでに男たちが焚き火を取り囲んでから一時間以上の時がすぎていた。

「やはり、山賊なんかじゃなかったな」
 シェシルは暗闇の中を器用な足取りで音も立てずに歩いてくると、岩場の隙間にするりと身を滑り込ませた。
「うん、俺もそう思う。あいつらノベリア軍なのかな」
「いや、違うな。だが油断はできない。のこのこあいつらの前に出て行くのは避けたほうがよさそうだ」
 それ以上何も言わないシェシルの瞳が、焚き木の炎の輝きを吸い取ってしまったかのように暗闇でゆらゆらと紫色に揺らめいている。ラルフはフードを目深に被りなおして、岩に背中をあずけた。
「ラルフ、長剣は背中に背負ったままにしておけ。私がやった剣をいつでも使える位置に置いて眠れよ」
 ラルフはシェシルの言わんとしたことを感じとり、肩に担いだままの長剣の革のベルトの締まり具合を確かめ、腰に下げていた短剣の止め具を外し鞘ごと胸に押し当て抱きしめた。

 男たちの話し声がだんだんと小さくなり、夜が更けて雨脚が強くなり始めると、周囲は息苦しいほどの暗闇と草木を叩く雨粒の音に支配された。
 ラルフは、顔を覆うようにかぶったフードを容赦なく激しく叩く雨に一睡もできず、まんじりと時間が過ぎ行くのをただ待つしかなかった。
 隣で身を丸めているインサは、深い眠りに落ちたのか体がぴくりとも動かない。シェシルの体の輪郭も、岩肌にぴったりと張り付いたように同化してしている。二人とも眠っているようだ。
 ラルフは目を擦ってゆっくりと体を起こした。胸に抱いていた硬い金属の感触に再び手を伸ばし、しっかりと握り締めると、そっと立ち上がり岩場の影から顔を出して、男たちが野営をしている方を覗き見る。
 どうやら夜半から強くなった雨に大きな焚き木は消えてしまったようだ。その周囲に作られた雨よけの小さな屋根の中で、ぼんやりと三角に切り取られた小さな光がいくつも見える。男たちは簡単な雨よけの屋根を張り、その下で休んでいるようだ。そこからもれた光で、馬たちが木陰に繋がれ、身を寄せ合っているのが確認できた。

 ラルフは岩場をそっと抜け出し、忍び足で野営地のほうへと近づいていく。近づくにつれ、雨音にも増して、川の流れる音が混じりあい聞こえてきた。この音の中では、少しくらい音を立てても男たちには聞こえないだろう。ラルフは足を速めながら、どんどんと近づき、ついには繋がれた馬のすぐそばの草むらの影まで来てそこに身を潜めた。
「……で、……しょうか?」
 ラルフはもれ聞こえてきた男の声に思わず頭を低くする。
「うむ、……殿下の仰せになる通りだろう。我らは少数で………」
 地を這うように低く太い声は、不思議なほどよく響く。ラルフは身を乗り出すようにしてその声に集中した。
「しかし、スヴィテル様。その情報は信用で…………」
「……の筋によると、すでにサンダバトナを出て……ルバーに向かっている」
「オルバーに入る前でなくては、……捕まえられませんね」
 ラルフが集中して耳をそばだててくると、会話はより鮮明に耳に届いてきた。
「そうだな。……ルーベスの巫女は、王弟の住まうオルバーに……れて行かれるだろう」
 ――なんだって!?今、ディルーベスの巫女って聞こえたぞ!
 思わず身を乗り出し草むらをかき分けて近づこうとしたラルフは、中腰のままバランスを崩し川岸へと転げ落ちそうになった。