第四章 霧の中夢の中 11
歯を食いしばってもどうにもならない。視界がゆっくりと傾いていく。しかし、ラルフの襟首は自然落下の法則に逆らうかのように、急激な力で後方へと引き戻され、さらに口と鼻をふさがれていた。
あっという間に身動きが取れなくなり、目を見開いて目の前で鼻を鳴らす馬の光る瞳を凝視した。
「……馬鹿か、……お前は」
耳元でシェシルの押し殺したささやき声がする。
ラルフは身をよじって自分の頭上を見上げた。そこにはシェシルの感情を押し殺したような表情があった。シェシルはじっと目の前の明かりのほうを見つめている。
「我らの動きは悟られてはおるまい。……の街道で待ち伏せするのが得策だろうな」
明かりから漏れてくる会話に変化はなかった。シェシルはラルフの口と鼻を覆っていた手のひらから力を抜くと、目だけでラルフにここから離れるぞと合図を送った。
ラルフもこれ以上ここにいることはできないととっさに判断し、素直に頷いてそっと草むらから身を引く。二人は無言でのろのろと元来た道を這うようにして歩き、インサが眠っている岩場まで戻ってきた。
シェシルが口を開く前にラルフはとっさに謝る。
「ごめん!」
シェシルは少し諦めたように短いため息を吐くと、さっき自分が身をあずけていた岩肌に再び腰を降ろした。
「……スヴィテル……か」
「…………え?」
「いや、なんでもない」
シェシルはそのまま身を丸めて再び眠ろうとする。ラルフはそんなシェシルに慌てて声をかけた。
「……シェシル」
「なんだ。私を怒らせるようなことを言うなよ。奴ならこの距離でも殺気に気がつきそうだ」
ラルフを睨むシェシルの双眸がちらりと輝いた。
ラルフは口をつぐんで一瞬考える。
――怒るだろうな、多分……。
しかし、今言っておきたかった。どうしても。
「シェシル、あいつら……ジェイを狙ってるんだ。……だから」
暗闇の中で、シェシルの紫色に揺らめく双眸がラルフのほうを見据える。その瞳には驚くことに、ラルフの心を見透かすような、しかし、優しさの滲む温かさが存在していた。
「わかった。このままあいつらの後を追いたいんだな。……だったら、もう無闇に近づくんじゃない。わかったら少しでも寝ろ」
その言葉を最後に、フードの奥から光は消え、まるで気配までも闇に溶けてしまったかのようにシェシルの存在が消えていた。闇の中に取り残されたラルフは、その横に眠るインサの背中の丸みに手を置き、自分の胸に湧き上がる希望を感じていた。
――テルテオを出てから初めて掴んだジェイの消息だ。
それはどんな内容であろうとも、今のラルフにはすがりつきたい情報には違いなかった。あの男たちの後を追えば、いずれジェイにたどり着けるかもしれない。そう思うと、ラルフの心に灯った炎がだんだんと膨らむのを抑えることはできない。自然と体が温かくなってくるようだ。ラルフは短剣を胸に抱くと、瞳を閉じゆっくりと眠りの中に落ちていった。
ラルフとは裏腹に、シェシルは暗闇の中で別の考えに満たされていた。
――ジェイを狙う勢力が少なからずもう一つはあるということか。
それと、ジェイを狙うそのもう一つの勢力にシェシルの知る人物が絡んでくるとなれば、戦乱は避けられなくなるのではなかろうか。
――ラルフの言うとおり、ここは後を追って様子を伺うしかないか。それと、無茶はできるだけ避けないと、追われる以上に厄介事を増やしたら、それこそジェイに追いつけなくなるだろうな。
暗闇の中で、ラルフの気配がだんだんと消えてゆき、空気の揺らぎが静かになった。シェシルはふと息を吐く。
――ここは相手の出方をじっくりと見定めてからだな。
シェシルは闇を見つめ、降りしきる雨の雨音にじっと耳を傾け、夜が白々と明け行くまで岩場の向こうの野営地の気配をうかがっていた。
雨はやまない。しかし、早朝の靄の立ち込める川岸では、男たちが出発の準備を始めていた。ラルフたちも荷物をまとめて男たちの後をつけてゆく。
ラルフは昨日の夜中に盗み聞きした男たちの会話を思い起こしていた。
――誰かに命令されて動いてるみたいだった……。それと、シェシルはあいつらの事を知ってるようだった。だから、俺が後を追いたいと言った時にあっさり承諾したんじゃないだろうか。男たちの目的はジェフティのようだ。
背中の荷物をぐいっと担ぎ上げ、フードをつたい落ちる雨粒がぽとりとラルフの鼻先に当たった。
――ジェイ……。会いたいな。
ラルフたちと男たちの隊は、離れたり近づいたりを繰り返し、慎重に森の中を抜けていく。雨のせいで思うように進まないのは、何もラルフたちだけではないようだ。しばらく川に沿って動いていたが、先を行っていた斥候が森の中から戻ってくると、方向を変えて森の中にできた細い道に入っていく。
「いいか、お前たち。これから奴らの背中を見通せない場所を行くことになる。もしもこれが罠だったら、間違いなく私たちは待ち伏せに合うだろう。慎重に間合いを取って着いてきているが、奴らが私たちに気がついているとも限らない。もしも見つかったら迷わず逃げろ。森の中に飛び込んで、ばらばらにな」
ラルフたち三人は、馬の足跡が残るぬかるんだ道の続く森の中へ、慎重にふみこんでいった。
男たちが森の中で細い道に馬を置いたまま木の幹にもたれかかって野営を張っている。
ラルフたちは道から離れ、草むらの中にうずくまり、少しかび臭くなってきた硬いパンをちびちびと口に運んだ。皮袋に汲んだ水も、残り少なくなってきている。いつになったらこの森から出られるのか、心配になってきた。
「……ラルフ。奴ら、明日動くみたいだぞ」
シェシルの言葉には、少し緊張の色が混じっていた。シェシルは夜の闇にまぎれるように、黒いマントをかぶり男たちの野営地に近づいてきたのだ。紫色の双眸が、フードの奥で輝いている。
「動くって?」
「斥候が戻ってきたんだ。この先にオルバーへ抜ける峠があるらしい。奴らはそこで布陣を敷く。……待ち伏せるつもりだろう」
シェシルが主語を抜いて話していても、何を待ち伏せるかすぐにわかった。ノベリアの軍隊だ。ラルフの拳が自然と硬く握りこまれ、奥歯をかんで野営をしている男たちのほうへと視線をやる。
――ジェイを連れ去ったあの男……。テルテオを焼き討ちにした軍隊を待ち伏せるのか!?
ラルフは焦る気持ちを身を丸めてじっとすることで押さえ込もうとした。もしかしたらジェイに会えるかもしれない。少ない食料で腹を満たし、ラルフは剣を胸に抱きしめて草むらの中に丸まった。
今の自分の状況を惨めだとは思わない。この自分の歩む道がジェイに繋がっていることがわかっただけで、かび臭いパンも、重くじっとりと湿ったマントも、汚れた足元も我慢できるのだ。