第四章 霧の中夢の中 12

 夜半、ラルフは何か甲高い物音を聞きつけた様な気がして、ふっと目を覚ました。相変わらず雨は激しく降っている。マントからはみ出た自分の手が、ぐっしょりと濡れていた。
「……シェシル」
 かすれた声がラルフの喉から漏れる。身を起こそうとしたラルフの頭に、ぐいっと草むらに押し戻す力が加わったのだ。ラルフは間近に見える大きなブーツのつま先で、それがシェシルだとすぐに気がついた。
「動くな」
 短いささやき声。ラルフは胸に押し当てていた剣の柄を握る指先に力を込めた。
 ――何か起きたんだ
 遠くで甲高い声が喚いている。
「いてて!何だよぅ、偶然通り過ぎただけじゃねえか!」
「嘘をつくな!」
 ――インサ!
 ラルフは一瞬で事態を飲み込み唇を噛み締めた。
「山賊のガキか。こんな夜更けになぜうろついている」
「山賊なんかじゃねえよ!」
 ラルフの頭を押さえつけるシェシルの手に力がこもった。山賊だと誤解されていたほうが、この山の中をうろついている言い訳もつくのに。
 ――インサのやつ!
「小僧、仲間はどうした。お前だけじゃないだろう」
 インサが黙り込んで、辺りは急に雨音が闇夜を支配する。じわじわと重苦しい湿った空気がラルフの首を締め上げていくようだ。
「……あんの馬鹿が!ラルフ、荷物を持って奴らに気がつかれないように道に出るぞ。何食わぬ顔で旅人のふりをするんだ。こんなところで隠れているほうが余計怪しまれる」
 二人は野営地の明かりが届かないところまで慎重に戻ると、木陰で小さなオイルランプに火を灯し、道を照らし出して歩き始めた。
「いいか、話しは私がする。お前はしゃべるな」
 ラルフが頷くのを確認すると、シェシルはわざと手に提げたランプを振りながら野営地に近づいていく。

「誰だ!」
 数人の男が、マントの中に手をいれ、腰に下げた剣の柄を握り締めて警戒した目でランプの揺れる明かりを見つめている。
 男たちの足元に小さくうずくまるインサの姿が見える。近づいてくるランプで照らし出されたシェシルの姿を見た途端、インサは目を逸らし背中を向けた。
 シェシルは立ち止まり、驚いたような声を上げた。
「よかった!道に迷ってしまったところだったんだ。こんなところで人に出会えるなんて」
 ――……胡散臭(うさんくさ)い。
 と思ったのは、ラルフだけだったと思いたい。
 しかし、ラルフの心配をよそに、男たちは少し警戒を解いたようだ。体勢を低くして睨んでいた男たちの体から少し力が抜ける。
「旅人か?この小僧はあんたの連れなのか」
「……ああ、すまない。物乞いの小僧が私たちについてきたのだ。こいつが何かやらかしたのか?」
 そう言いながらシェシルはインサに近づくと、男たちから見えない位置で思い切りつま先で蹴りつけた。インサが小さく呻く。
 男たちは小さくうずくまるインサに視線を落としながら苦笑した。
「ああ、我らの食料を盗もうとしたのだ」
「それは申し訳ない。いくらこいつが勝手に私たちについて来たとはいえ、責任は私にある」
 男たちはなおも苦笑しながら首を振った。
「いやなに、大したことはない。もう食料は我らの元に戻った。……ところで、旅人とお見受けするが、いったいどこまで行かれるつもりだ?」
 やけに礼儀正しい山賊風情。明らかに無理がある。
「オルバーまでだが、……この道で正しいのだろうか」
 シェシルの演技は続く。不安げな声色がやっぱり胡散臭いとラルフは思いながらも、ランプに照らされたぬかるんだ地面をじっと見つめた。
「ああ、このまま行けば街道に出るだろう」
「そうか……」
 その時、よく響く地を這うような声が、男たちの後ろから雨音の間をまっすぐに飛んできた。
「シェシル・デュルードか!」
 ラルフは一歩下がる。思わずマントの上から、腰に下げた剣の柄の固い感触を手のひらで確かめた。
 シェシルを取り囲んでいた男たちも、その声に怯んだように後ろを振り返った。シェシルが顔を上げる。自分たちを取り囲んでいた山賊風情の男たちの向こうから、妙に人懐っこい笑顔をした大男が、のしのしとこちらに近づいてきた。周囲の男たちがさっと脇にどいて道を作る。その様子を伺うだけで、その大男が只者ではないことが容易に推測できた。
「やはりそうか!いやぁ、まさかこんなところでめぐり合うとは」
 大男はシェシルの背後のラルフをちらりと見る。その視線は一瞬でラルフの頭を射抜くような、裂ぱくの激しさがあった。ラルフはこの大男が、シェシルの間合いに入らないぎりぎりのところに立っていることに気がついた。
「ええ、お会いできて光栄です。……スヴィテル様」
「久しいな、シンパ侵攻以来ではないか。あれからどうしておったのだ」
「今は放浪の旅を楽しんでいるところで」
「ほお。それで、弟子でも拾って育てていうというところか」
 スヴィテルという男は、もう一度ラルフのほうをちらりと見る。
「まあ、そのようなものです」
「まさか引退なんてことはないだろう。そなたの腕前は大陸中に響き渡っている。是非、またその力を貸してもらいたいところだ。敵には回したくないからな」
 スヴィテルは豪快に笑うと、オルバーまでの道を教えてくれた。シェシルは男たちがなぜここにいるのかなど一言も尋ねたりはしない。
「この辺りは朝靄が濃くてかなわん。迷わないように気をつけてな」
 スヴィテルの言葉には気遣いの影に潜めた、早くここを立ち去れという圧力があった。シェシルは丁寧に礼を言うと、足元にうずくまって固まっているインサの襟首を掴み、まるで荷物か何かのように持ち上げて無理やり立たせた。
「夜遅くに邪魔をして申し訳ありません。失礼します」
 シェシルはインサの背中をどんと突き飛ばすと、男たちの視線を痛いほど浴びながら、道の先をランプで照らし歩き出した。三人は黙ってひたすら下を向き、黙々と森の中を歩いていく。

 シェシルの後ろを歩くラルフは、シェシルの怒りをひしひしと感じていた。前を歩くインサはラルフよりもその怒りに怯えていることだろう。インサは歩き始めてから一度も声を発することなく、後ろを振り向こうともしない。
 シェシルは、一度立ち止まり背後を確かめると、ドスのきいた声でインサの襟首を掴んだ。
「お前、よっぽど私に殺されたいようだな」
「ご……ごめ……。そんなつもりじゃ!」
 インサのつま先が地面から離れ、苦しそうにじたばたともがく。
「かといって、こんなところに死体を転がしとくわけにはいかない。奴らは私たちが無事にここから遠ざかってほしいようだ。助かったな」
 インサはため息をついて、もう一度小さな声で謝った。
「あのスヴィテルって人、知り合い?」
「昔の雇い主だ」
 それ以上は訊くなという態度で、シェシルは視線をそらしたため、ラルフはその後何も聞くことができなかった。
 三人は夜通し山道を歩き、朝靄で辺りが真っ白に包み込まれたころ、オルバーへと続く切り立った岩場が続く峠へとたどり着いた。
 緊張と寝不足で体が重い。さすがのシェシルも怒りが加わったことで余計に疲れているようだった。三人は、峠から森の中に入った木の根元に身をよせ、朝靄が晴れるまで仮眠をとることにした。荷物の重みが体に心地よく、ラルフは体を持たせかけると、すぐに深い眠りに落ちていった。


 三人の眠りを唐突に奪い去ったのは、轟音のような雨音の間をつんざく鋭い指笛と、それと共に遠くで沸き起こったときの声だった。密やかに、秘めやかに、時代の流れが変わりゆく瞬間の訪れと共に、それは高らかに鳴り響いたのである。

第四章 霧の中夢の中 END
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