第五章 歪む笑顔 1

■5-1 奇襲

 アスベリアは血のりのついた剣を一振りし、めまぐるしく変わりゆく己の状況について考えをめぐらせていた。
「一体、何が目的だ」
 目の端に、この殺伐(さつばつ)とした風景にそぐわないものが横たわっているのが映っている。スノーレパードの豪奢(ごうしゃ)な灰白色地に美しいまだらが散った毛皮の襟飾りが、どす黒い血でぬらぬらと彩られている。まるでモノクロの風景にそこだけ絵の具を落としたかのような、鮮烈な色合いだ。その側で、女のような甲高い悲鳴を上げ、アスベリアに助けを求める細面の男が、山賊の格好をした男に追い立てられていた。
「うるさい」
 アスベリアの綺麗に並んだ歯の間から、苛立ちが言葉となってもれ出た。
 先ほど命乞いをしながらも無残に切り殺された、ナーテ公の死体を一瞥する。アスベリアはナーテ公を助けようともしなかった。雨の降りしきる中でも目立つ純白の馬車から、山賊どもはナーテ公だけを引きずり出し、(ひざまず)く公をあざ笑うかのように切り捨てた。アスベリアの目の前で。
 ――まるで公開処刑のようだ。
 その死にすらアスベリアは何も感情を揺さぶられることはなかった。しかし、現状は確実に彼を窮地(きゅうち)に陥れていた。
 ――この状況を後に話せるものがいないというのは確かだろうが、しかしオレが公を見殺しにした事には変わりない。戻ったところで処罰は免れないだろう。かといって、ここで死ぬのも御免だ。
 その時だった。アスベリアの雑念を吹き飛ばすほどの強烈な殺気が、彼の右肩に襲い掛かった。

「なんだ!」
 アスベリアはその殺気の後に空気を切り裂いたものを、体をひねってかわすと、青白く輝く流星のごとき残像が、異常なスピードで自分に向かってくるのを信じられない思いで見た。
 刃が切り裂く風の唸りが、その重量を推し量っている。
 ――まずい!
 アスベリアの視界を塞ぐほどの巨体が、ぐいっと迫ってきた。その男の握る獲物に、アスベリアはますます目を見開く。青白く光を放つ巨大な戦斧。その前ではアスベリアが握る長剣など、まるで短剣かナイフのようだ。

 男がうなりをあげ、何も握っていないほうの腕を振り下ろす。
 刃が空を切る音とはまた違った唸りがアスベリアの頬をかすめ、一瞬遅れて皮膚が裂け血が頬を伝い落ちた。
 ――なんだ、このスピードは!
 その重量にそぐわない速さに、アスベリアは腹の奥底が急激に冷えていくのを感じた。

 戦慄。


 それを恐怖だとは思いたくはない。思えばたちまち力が抜け、両の目が幻覚を映し出すだろう。この場に留まるのだ。それだけで勝機は必ず見えてくる。
 戦斧を握って仁王立ちの男は、目深にかぶったフードの奥で、自分の間合いから飛びのいた長身の男を注意深く見つめ、そして口元をゆっくりとゆがめた。
 ――余裕綽々(しゃくしゃく)といったところだな……。こっちから仕掛けられるのは一度きりか。
 アスベリアの猛禽類を思わせるキャメルブラウンの切れ長の瞳が、周囲に広がる炎の輝きを吸い取り、一瞬きらりと光った。
 瞬間、アスベリアの足が力強く地を蹴った。たった三歩で相手の間合いに踏み込むと、鞭のようにしなって見えるというアスベリアの斬撃が、水溜りの水を掬い上げ、風を切る音と共に男の前に舞い上がる。
 ――受け止めろ!この一撃を受け止められたときが、オレの唯一の勝機だ!
 アスベリアの手首に、骨が押しつぶされるような衝撃が走る。まるで悪魔が持つ巨大な肉切り包丁のような刃から火花が散り、目の前を滑っていく。アスベリアの左手が、男の後頭部へと周り、力任せに引き寄せた。
 息が詰まった呻き声が、アスベリアの喉から漏れた。男の戦斧を握っていない右手の握りこぶしがアスベリアのわき腹にめり込む。それと同時に、男の顎にもアスベリアの折りたたまれた膝が叩き込まれていた。
 白く、視界が閉じていく。こらえ難いほど体が本能で逃げようと、夢の中へと落ちようとする。しかし、ここで気を失うということは、己の死を意味していた。
 ――だめだ、それだけは!
 アスベリアは、男の首にしがみつく様に身をあずけ、一気にその体を乗り越えた。男の体がぐらりと傾きのけぞる。アスベリアは己の剣から手を離し、両手を組んで渾身の力で男の側頭部に叩き付けた。一瞬前に衝撃が走った手首の骨に、またも鋼鉄のハンマーを振り下ろされたような硬い鋭い痛みが突き抜けた。

――くそ!力任せに殴りつけやがって……。

 男の口からも、アスベリアの口からも同様にうめき声が上がる。二人はもつれ合いながら、大きな水溜りの中へ倒れこんだ。派手に泥水が跳ね上がり、目から口から容赦なく入り込んできて、アスベリアは激しく咳き込む。アスベリアの口の中に、金属の味が広がる。男はそのままぬかるみに突っ伏すように倒れると、一度うめき声を上げたあと動かなくなった。
 傍らに横たわった男の体は、咳き込むアスベリアとは違い、身動き一つしない。アスベリアは、脇腹を押さえ血の混じった唾を吐き出しながら、片目を瞬かせ地面に手をつき体を起こした。
「冗談じゃないぞ……」
 アスベリアの目の前には、青白い光を放つ巨大な戦斧が泥水に半ば没して、その異常な姿をさらしていた。
「ガウリアン鋼か」
 コドリスの兵士でも、そんなものはなかなか手にすることはできまい。それならば、この男は何者なんだ。
 その脇に転がった自分の長剣のなんとか弱く、頼りない姿か。それでも何もないよりはましだろう。今はこれに命を預けすがるしかないのだから。アスベリアは自分の剣の柄を握り締め、それを引きずり出すように、泥水の中から引き抜いた。
 背後から、こちらへと駆け寄ってくる足音がする。アスベリアは横目でその足音の主との距離を測った。
 ――次から次へと……。
 苛立ちが猛烈な勢いで腹の底から湧き上がってきた。しかし、先ほど脇腹に叩き込まれた一撃で、立ち上がる力が入らない。
「クソ!」
 足音の主が剣を上段に構える。アスベリアは泥水の中を這いずるように身をかがめ、自分の剣を水平に持ち上げ上へと突き上げた。
 剣を振り下ろそうとする男の推進力と、アスベリアの下からの突き上げる力が、男のみぞおち辺りに当ったアスベリアの持つ剣に集中する。