第五章 歪む笑顔 2

 男の口から飛まつが飛び散り、押し潰したようなうめき声がもれ出た。それと同時に、アスベリアの剣が、高く鋭い破裂音を伴って手の内で折れる。衝撃が、またもやアスベリアの手首に走り、思わず悲鳴にも似た声を上げてそれを手放した。
 男が傍らに倒れこむ。

 辺りが静まりかえった。

 ――残党はどこだ。
 アスベリアはかすむ目を擦りながら辺りを見渡した。泥濘(ぬかるみ)に投げ出されくすぶり続ける松明から漂ってくる、甘ったるい油の焼ける臭いが鼻をつく。それは粘着質を帯び、アスベリアの髪、皮膚、鼻の粘膜にべったりと染み付くようだった。
 先ほどアスベリアに助けを求めて逃げ惑っていた、ナーテ公の腰巾着の男の死骸が、アスベリアからさほど離れてないところに転がっていた。
 耳を澄ませば、そこかしこからうめき声が聞こえてくる。アスベリアも体を起こしていることに限界が来ていた。視界がゆっくりと傾く。
 濁った水を跳ね上げながら、昏倒したままの大男の傍らに体が伸びた。
 視線の先に、男の懐が見える。その端からちらりと覗く装飾のついた鎖が鈍く光っていた。アスベリアは、まだ動く左手をどうにか伸ばして、その鎖に指を引っ掛けると男の懐から引き抜いた。
 ずしりとした確かな重量が、アスベリアの掌へと滑り込む。
 いつの間にか頭上に顔を出した月が、その手元を照らし出していた。

「……やられた」
 思わずアスベリアの喉から悔しさのにじんだ言葉が漏れた。アスベリアの手の中で、見覚えのある美しい文様が青白い光を反射し、輝いていた。アスベリアにとってそれは、苦々しい記憶を呼び覚ます鍵のようなものだ。シンパ戦の敗北。その時の記憶がまざまと脳裏に蘇ってくる。それは、アスベリアにとってさまざまなものを失わせるきっかけとなった出来事を多く孕んだものだった。
 その戦いのさなか、このアルハンマムールの白い花の美しい文様が入った旗が、いくつも最前線に燦然(さんぜん)ときらめき、退却するアスベリアたちに向かって誇らしげにはためいていた。
 あの光景は忘れることは出来ない。
 あそこまで完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、敗走を余儀なくされたのは、油断以前に、コドリス側の指揮官、アルハンマムールの紋章を掲げるその人物の策略が見事だったからに過ぎない。
 その指揮官の名は……。
「セオール=マーニヤ」
 アスベリアは戦場でその姿を目撃することは出来なかった。若干二十歳そこそこの小娘であったらしい。コドリス現王バルナバ=ジェスタルの末娘で、母親の身分が低いため小さい頃はコドリス国内の下級貴族の元で育てられたらしい。しかし、その才能は兄弟の中でも抜きに出ており、バルナバの寵愛を受け、今や次代の王はもしやこの娘かと囁かれているほどだ。
 その圧倒的なカリスマ性、おまけに当代きっての美貌を併せ持つとなれば、その足元へと集まる兵士の士気も自然と高まるというものだ。
 アスベリアは、あの時の敵陣から沸き立った異常なほどの士気の高まり、陶酔に近いような一体感を思い出して背筋が寒くなった。あれでは、勝てる戦も押し戻されてしまうだろう。勝利に必要なものは、戦略と並び重要なその統率、一体感なのだ。
 それほどの人物が後ろ盾の山賊風情か……。

 アスベリアは状況を整理しようと勤めるが、どうにも体が動こうとしない。口の中が強い金属の錆のような酸っぱい味がし、吐き気がこみ上げてくる。悔しさがにじんだ。
 ――コドリス王の命令か。目的はなんだ……。
 最初から、自分たちは狙われていた。アスベリアには確信があった。しかし、国王軍とはいえ、こんな小隊を襲っても利益はないだろう。ナーテ公は、たまたま偶然この隊に付属していたに過ぎない。そんな効果を狙ったわけではないだろう。ただ、ナーテ公に手を出したのは、相当な衝撃と火種を双方に生んだに違いない。それは不可抗力だ。
 ――目的は、やはり。
「ジェフティ、巫女姫か」
 アスベリアはエドがどの辺りまで逃げ(おお)せたのか気になった。

 その時だ。水溜りを勢いよく踏みつけながら、こちらに駆けて来る足音がアスベリアの耳に届いた。
「ア、アスベリア様!」
 声変わりを終えたばかりの、不安定なかすれた声。いや、緊張と恐怖で上ずっているのか。アスベリアは、少し体を起こす。
「大丈夫ですか!アスベリア様」
 駆け寄った人影が、アスベリアの傍らに膝をついた。
「ああ……」
「あの、おれ、アスベリア様の言いつけどおり隠れていて」
「無事だったか、イムン」
 アスベリアは全身に感じる痛みに顔をしかめながら、泥に没した自分の折れた剣を拾い上げた。
「イムン、お前は馬はもう使えるのか」
 イムンは一瞬きょとんとした顔をしたが、次の瞬間には表情を引き締め背筋を正した。
「はい、訓練は受けています」
 アスベリアは自分の泥だらけの手をイムンの頭に乗せ、その胸に折れた剣を押し付けた。
「隊の前のほうに、まだ馬が残ってるだろう。お前はこれをもってオルバーに向かえ」
 イムンのハシバミ色の瞳に狼狽が広がり、涙が盛り上がってきた。
「えっ、……でも、アスベリア様は……」
「俺は大丈夫だ。それよりも、この状況を早く報告しなくてはならない。お前にしか出来ないんだ」
 アスベリアは視線をちらりと横に向ける。その視線につられてイムンもアスベリアと同じ方向を見、そしてその瞳を見開いた。
「そうだ、ナーテ様が族に襲われお命を落とされた。だから……ぐあっ!」
「アスベリア様!」

 イムンの目の前で、アスベリアの体が勢いよく地面に突っ伏した。何かがアスベリアの足をものすごい力で引っ張ったのだ。泥水が再び目に入り、視界がぼやける。アスベリアは体をもがきながら叫んだ。
「何をしている!早く行け!これは命令だ!」
「は、はい!」
 イムンの足音が遠ざかってゆく。
 アスベリアは、がっちりと掴まれている自分の足の先を見た。
「離せ!」
愁傷(しゅうしょう)なことだな、子供を逃がすとは」
 そこには、先ほどアスベリアの横で昏倒していた男が、痛そうに自分の顎を片手で押さえていた。もう片方の手はアスベリアの足首をしっかりと押さえつけている。その力がすごい。
 アスベリアは再び泥水の中に没した。後頭部を押さえ込まれ、全く身動きが取れない。アスベリアは満身の力でそれに(あらが)ったが、余計に泥水が鼻から口から流れ込んでくる。
「おとなしくしろ!」
 アスベリアはその声を聞いたとたんに、意識が遠のくのを感じた。
 ――クソッ!
 毒ついたのは心の中だったのか、声に出したのかはわからない。それほど急激にアスベリアは意識を手放したのだった。