第五章 歪む笑顔 3

■5-2 (うず)きの根源

 ――吐きそうだ……。
 目を覚ます。意識がはっきりと実態を伴って戻ってきた。
 揺れる足元が心もとない。アスベリアは、自分の体に伝わってくる振動で、己がどこかへと動くもののの中にいると判断した。しかし、周囲は闇に包まれている。自分が置かれている状況を判断するすべがなく、仕方なくアスベリアは耳を澄まし周囲の音を捕らえるため神経を集中した。

 ガタゴトと、その音のたびに下から背中へと振動が伝わってくる。男に手酷く殴られた脇腹が痛んだ。両手首にも痛みが走る。どうやら、自分は手首を体の前で一つに縛られている格好で、何か柔らかなものの上に横たわっているようだ。
 ――雨……が、また降り出したのか。
 雨季特有の激しい雨の音が、アスベリアの周囲を取り囲む。
 一段と大きな振動が下から突き上げてきた。一瞬、体が()ねる。アスベリアは脇腹から全身に突き抜けた激痛におもわず(うめ)いた。
 ふと、傍らで物音がする。コトリと硬いものが置かれる音がし、アスベリアのすぐ脇に動く気配があった。
「車輪が石を噛んだのだ」
 若干しゃべりにくそうに発音する低い声が、頭上から聞こえてくる。アスベリアの目の前が急に明るくなり、その光のまぶしさに顔をしかめた。
「……今は、夜なのか」
 我ながら間の抜けた発言だ。しかし、アスベリアの傍らにいた男は、ただ「ああ、そうだ」と言いながら元の位置へと体を戻す。アスベリアはしばらく体を横たえたまま、周囲をぼんやりと見渡した。
 ――馬車の中か……。
 傍らの男に目をやる。先ほど、自分に殺気を突きつけ脇腹を殴りつけた大男が、黙って酒の注がれたグラスに口をつけているところだった。不思議なほど穏やかに佇んでいる。アスベリアはゆっくりと身を起こした。男の雰囲気に引きずられたのだろうか。アスベリアもなぜかとても穏やかな気持ちになっていた。いや、自分が置かれているこの状況が一体どういうことなのかはわかっていた。捕らえられ縛られて、どこかへ連れて行かれる途中なのだ。
 ――オレは、国から開放された。
 そんな気がしたのだ。襲撃に()うまで、あれほどこの身を大地に縛りつけ、国という後ろ盾の窮屈さをいやというほど知らしめていた重圧は、今はもう感じられない。体から力が抜ける。
 ――捕虜か。そんな立場に身を落としているにもかかわらず、我ながら暢気なもんだな。
 と、アスベリアは心の中で苦笑した。

「強いぞ」
 目の前に、グラスが差し出された。琥珀色をした酒がなみなみと注がれたそれを、アスベリアは躊躇(ちゅうちょ)することなく両手で受け取った。揺れる滑らかな表面に、ランプの明かりがきらりきらりと控えめに踊っていた。
 黄金に輝くグラスとは対照的に、泥にまみれた自分の両手は先ほどのままだ。こびりついた誰かの血が、手の甲に残っていた。泥水も頭からかぶっている。鏡など周囲にないからわからないが、今の自分は惨めなほど薄汚れて泥と返り血にまみれていることだろう。まだかすかに、生臭い血の臭いがする。
 アスベリアは、グラスに口をつけ酒を舐める。その時、自分の口の中が切れていることに気がついた。酒がやけに()みて痛み顔をしかめる。
「強い酒だと言ったはずだ」
 朴訥(ぼくとつ)とした言い方をする男だ。しかし、アスベリアを抜け目なく観察しているのはわかった。
 アスベリアは二口目を口に流し込んだ。辛味のある強い酒が、口の中いっぱいに広がった。
「……オレの部下たちは」
 アスベリアは真っ直ぐに男の目を見る。男の目には動揺も驚きも、感情の揺らぎすら何も変化はなかった。
「その場に置いてきた。特に必要はなかったからな」
 その為のカモフラージュ、山賊の格好だったということか。
「死体もけが人もか」
「ああ、そうだ」
 それは、後から通りがかる旅人はさぞや度肝を抜かすことだろう。
「……なんだ、お前が逃がした子供は見逃してやったぞ」
 ――それはまた愁傷なことだな。
 と、先ほどこの男に言われた言葉をそっくりそのまま返したくなった。先ほどの光景を再び思い出す。
 雨にぬかるんだ泥だらけの足元。打ち捨てられた松明。くすぶる炎に照らされる、無残に横たわる部下たちの死骸。その中の幾人かは、アスベリアの身を守るために、自らの体を盾にし命を落とした。
 ――オレにそんな価値があるのか。
 何のために命を()ける。死してなお、思うことを聞けるならば、きっと自分への恨み言ばかりなのではないだろうか。後悔は、すでにその時には遅い。使命や忠義は何の役に立つというのか。
 ――オレは後悔ばかりしている。悔やんでばかりいる。
 泥にまみれて血を流し横たわる、そんな姿をさらすことになったとして、果たしてその時笑って逝けるだろうか。満たされない心が、それを拒んでいる。
 未だ死を望まない。清く澄んだ心も、身体ももはや必要ない。この、今の状況を、自分の立場を利用し、欲しいものを手に入れてみせる。この足元に累々と積み上げられた屍も踏み越えて、自分の信じる姿を手に入れる。アスベリアは巫女姫の瞳の奥に揺らいだ、自分の沸き立つ野望が胸に炎となって灯ったのを確かに意識した。
 ――あれこそが、自分が望んだもの。本来の姿ではないか。
 アスベリアは背筋を伸ばし、正面から目の前の男を見据えた。
「……なんだ」
 男は酒を飲み続けている。その顎は痛々しいほど黒ずみ腫れあがっていた。

「この隊は、セオール=マーニヤの差し金だろう」
 一瞬、男の視線に殺気が立ち上る。
「何が言いたい」
 男は、喉の置くから搾り出すような声を発した。その名を口にしただけで、これほどの男が緊張するような女とは、一体どういう人物なのか。
「戦盤上のジーニアス、常勝の姫君……とか。ノベリアでもその名は知れている。アルハンマムールの紋章は、その勇名と共に天下に轟いているからな」
 アスベリアの瞳が、挑発的な輝きに揺らぐ。
「ディルーベスの巫女姫をくれてやってもいいぞ」
「目的はなんだ。なぜお前がそんなことを言い出す」
「それが欲しいのだろう?」
 男は、持っていたグラスを傍らの木の箱の上に置いた。
「巫女姫はすでにあの隊にはいなかった。どこにいるのか知りたくて、オレを捕虜にしたんだろう?」
 男はなおも黙って、ギラリと光る視線を向け、殺気を身のうちに潜ませていた。
「オレの利用価値を侮るなよ。オレはもう国には戻れない。いや、戻る気もない。国王の犬なんてまっぴらなんだよ」
「お前の虚勢など、セオール殿下には届かんぞ」
「さあな、やってみなくちゃわからんだろう。オレは、こんなクソくらえなちっぽけな国の為に死ぬのはゴメンだ。オレは自分の命に懸けても、国王の為になど死にたくないね」
 アスベリアは挑発的な笑みを見せた。男の瞳が驚きで見開かれる。
「お前は……、忠義というものがないのか」
「捨てたね、そんなものは。どうだっていい。自分の欲しいものを手に入れる。何を犠牲にしても、どんなに沢山の人間を殺しても、手に入れてみせる。そもそも国なんてものが必要か?」
「一体、何が欲しいというのだ」
 アスベリアは、酒の注がれたグラスを床に置くと、自分の両足を縛っていた縄の結び目をいじり始める。男は黙ってそれを見つめていた。
「この大陸だ」
「なんだと!王になりたいとでも言うのか!」
 男は、はじかれたように笑い声を上げた。「馬鹿な!」と、言いながら、腰の短剣を抜きアスベリアの縄を切る。その顔には困惑したような笑みが残り、その瞳には哀れみすら浮かんでいた。アスベリアは痛む右手首をさすり、床の上のクッションにだらしなく長身を横たえた。
「何を言い出すかと思えば……。この大陸は八百年の昔、ケンティライナス帝の御世に国が分裂して以来、変わることはなかった。それを今さら。それもお前が皇帝になるだと?」