第五章 歪む笑顔 4

「何が悪い。その八百年前、この大陸は一つの帝国だったんだ。誰が統一したって不可能というわけではあるまい」
 男の顔に戸惑いが広がる。
「何を馬鹿なことを。自分の器というものを(わきま)えたらどうだ。それとセオール殿下と何の関係が?お前の瑣末(さまつ)な夢など、セオール殿下には露ほども接点はない」
「それはセオールに聞いてみなくちゃわからんだろう。オレはただ、そいつに話しをしたいだけだ。ノベリアを捨てたオレがコドリスに行ったかといって何が悪い。そうだろう?」
「万に一つも可能性はない」
 男はため息をついた。
「いい加減、その馬鹿馬鹿しい夢は諦めたらどうだ」
 夢は自分で叶えなければ実態を持たない。諦めたら、全てはそこで終わる。己の命さえ絶たれるだろう。それほどの賭けだ。命を惜しむわけではない。その為に生きているのだ。
「……セオール殿下の(めい)がなければ、お前を始末して身軽になるのだがな」
 男は本当に困った顔で、再びグラスを持ち上げた。この男は、心底悪人にはなれない性分らしい。アスベリアはそれが可笑しかった。
 アスベリアも、床に置いていたグラスを手にする。残りの酒を一気に口に流しこむと、喉が焼けるように熱を帯びた。
 瞳を閉じ、馬車の天井を激しく叩く雨音に耳を傾けた。やがて、雨音がアスベリアの身体をぐっしょりと濡らすかのように染み込んでくる。それは懐かしい記憶をつれて、死者が忘却のかなたから蘇るような、ねっとりとした空気を(まと)いながら、アスベリアの心の心の根底に埋もれた切ない想いへと迎えに来たのだった。


 ――オレは、いつか馬に跨る騎士になりたかった。
 それは、子供の頃に抱いた夢だ。羨望や栄光、名誉、地位。貧しい村の農夫の息子だった自分。男だったら、誰だって子供の頃一度はそんな夢を見たはずだ。それは幼さゆえに、その姿かたちに憧れを抱いたにすぎない。ただ、格好良いと。
 変化のない毎日。土にまみれ、大した農作物も収穫できない痩せた大地に鍬を振るう自分も、その自分の将来の姿であろう父の姿も、全てが嫌だった。ある日、鍬を捨て、故郷を捨て、家族から逃げ、自分はその手に剣を握ったのだ。
 家族が雨粒を瓶に溜めるようにして貯めていた微々たる金を持ち出し、王都カリシアにアスベリアは向かった。罪悪感は無かった。自分は必ず認められると、根拠の無い自信だけがアスベリアを駆り立てていたのだ。
 ――十五歳。
 野心が芽生え、自尊心が鎧のように己の身体を包み込んでいた。
 しかし、現実は夢の前に立ちはだかる。アスベリアは城の門の前で立ち尽くすしかなかったのだ。門兵にすら鼻であしらわれ、笑われて追い返される日々。家から持ち出した金もあっという間に底をつき、カリシアのはずれの路地裏で漫然と乞食のようにうずくまる生活へと転落するのにそう時間はかからなかった。
 ただ、夢だけを見ていた。
 憧れは形を持たず、焦りすらも失われていく。シェンタールたちと、旅商人の荷車から食べ物を盗み、捕まっては手酷く殴られもした。王都は、アスベリアにとってひどく辛く孤独な街だったのだ。その日一日、どうにか食っていけるだけの賃金を貰い、過酷な労働に身をやつしたこともある。自分の生まれた村での生活が懐かしくて仕方なかった。

 しかしそんな時、アスベリアの目の前にチャンスが訪れる。王が戦争を起こすための兵を募ると書かれた触書が現れたのだ。
「アス!あんた、これで騎士様になれるよ!」
 シェンタールが、触書を握り締めてアスベリアの首に抱きついた。
「二人でワルツの練習をしたのも無駄じゃないね」
 ――これしかない!
 再び目の前に現れた好機を掴むべく、アスベリアは胸を弾ませ城の門をくぐった。そこで最初に自分を招きいれたのは、エドであったらしい。年齢を偽っていたことを見抜き、やせ細った自分に――戦場では生き残れない――と苦言を呈されたことも覚えている。
「真の戦場は地獄への入り口だぞ。生きて帰るなんて保証はどこにも無い。仲間のところに戻れ。そのほうが幸せだということも、この世の中にはある」
 今思い返してみても、あの頃の自分は何も知らず憧れで胸を膨らませた世間知らずの子供だった。次に目にしたのは、自分が夢にまで見た騎士の姿ではなかった。武装というにはいささか躊躇(ちゅうちょ)するような粗末な鎖帷子(くさりかたびら)、錆の浮いた刃のかけ落ちた剣、昼間から酒に酔い赤ら顔でどんよりとした目をした粗暴な男たち。およそアスベリアの想像からはかけ離れた光景であった。しかし、アスベリアはそんな虚像の騎士像にまだしがみつき、いつかは馬に乗って戦場を駆ける、雄々しい姿を夢見た。
 自分に用意されたそれら粗末な防具や剣を身につけ、貧弱な身体でよろよろとしながらも、それでも確かに自分の国、王の為、戦場で戦う自分を思い描いたのだ。
 なんの訓練も無いまま、アスベリアは突然、戦場の真ん中に連れ出された。
 ――よく生きて戻れたよな。
 右も左も赤の他人。男たちが力任せに体でぶつかり合い、それが敵なのか味方なのかさえ判別できなかった。すべての人間が憎しみを抱き、恐怖の一線を超え、狂気へと踏み入ってゆく。エドが言っていた――地獄の入り口――いや、そこは地獄そのものだった。
 アスベリアはただ逃げ回っていた。男たちの流した血肉が染み込んだ大地は、歪みぬかるみ、アスベリアの足首を掴んで引きずり倒す。恐怖が、骨の芯までアスベリアの体を凍りつかせた。ひたすらに泥にまみれ降り注ぐ血をかぶりながら、壮絶な叫び声を耳の奥に刻みながら、その中を這いずり回った。
 次に連れていかれた戦場も、その次も、そうやって生き延びてきた。
 ――オレはどうしようもない卑怯者だ……。
 自尊心は打ち砕かれ、感覚は麻痺してくる。戦場の狂気への陶酔と、命の軽さ。アスベリアはそんな中でかろうじて自分を繋ぎとめようともがいていた。
「お前は何を成すためにここへ来た!逃げろ、生きるんだ!」
 何度もエドがアスベリアの襟首を掴み、窮地を救ってくれた。
 殺し合い、憎しみ合い、そこからは何も生まれてはこない。それを嫌というほど知ったというのに、アスベリアは戦場から抜け出すことが出来なかった。戦場で逃げ回っているうちに、アスベリアは気がついたのだ。自分には帰る場所が無いのだと。生きていくところは、もうここしか残されていないのだと。

 そうこうしているうちに、アスベリアの周りの男たちはどんどんと姿を消してゆく。生き残り戦場から戻るたび、アスベリアの地位は、彼の功績とは関係なく少しずつ上にあがっていった。
 ただ、生きて帰ってきた、というだけで。
 本気で戦い抜いた男たちは、次々と命を落としてゆく。いとも簡単に人間が死んでゆく。それを尻目に、生き抜けばそれだけで己の夢は近づいてくる。何という残酷な現実、矛盾すらも生きていればこそ。
 いつしかアスベリアは、馬に跨り戦場を駆け回っていた。もう、村を飛び出した頃の自分の夢は、消え去ってしまっていた。エジバドガの戦いでベラス=ナズラ上将軍に見初められ、小隊を任されるようになった。戦場では戦う道具としてではなく、駒を動かす策士として名を馳せた。
「人間ひとつは取り柄というものを持ってるもんだなあ」
 アスベリアの目を見張る出世に、エドもその周囲も驚いた。

 そんなときだ。あの男に出会ったのは……。
 ――ノリス=ぺルノーズ。
 その名を思い出すだけで、アスベリアの心のどこかがちりちりと、苛立ちにも似たものが(うごめ)いた。