第五章 歪む笑顔 5

 それまでは、噂でのみその男の名を聞いていただけだった。アスベリアは、ベラス=ナズラ上将軍の元で小隊を率いている一介の小隊長、相手は国王直属の軍、精鋭部隊を率いる騎士団長だ。格が違う。会う機会すらなかった。
 その男の武勇伝は伝説のように聞き及んでいた。
 鬼神というあだ名がつくほどその姿は雄々しく、戦場での姿は敵軍が目前で逃亡するほど恐ろしいと。数々の輝かしい戦歴を持ち、貴族出身でもなく農民の出でありながらあっという間に国王軍の騎士団に引き立てられ、その人望と功績で歴々の騎士たちが団長にと推薦したという。国王の信頼も厚い。
 戦場を逃げ回り、ただ生き延び続けていたために、それを手柄にここまでのし上がった自分とは、まるで対照的な男だった。

 唐突に、まるで神にいたずらされたかのようなそんな出会いだった。それが後に、こんな形で(たもと)を分かつことになろうとは、誰が予測しただろう。
 下級兵士が集まる酒場の外で、アスベリアは酒を飲みながらチェスを楽しんでいた。チェスの相手は、同じ上将軍に使えるラステア=チェスカ小隊長で、いつもアスベリアとここで対戦をしては負け、酒を(おご)らされていた。今日こそはアスベリアに一矢報いようと、真剣なまなざしで盤を食い入るように見つめている。
「やあ、君は……、ベラス将軍の……」
 そこへ、のんびりとした足取りでやけに体格のよい、身なりのいい男が近づいてきた。
「ああ、そうだが?」
 アスベリアは怪訝そうにその男を見上げる。
 ――日向の犬のような奴だ。
 それが、アスベリアの第一印象だった。にこやかで穏やかな、年のころはアスベリアとそんなに違わなさそうなのに、まるで好々爺とした落ち着きを放つ男だった。
「対戦中のところ、申し訳ない。ベラス上将軍をお見かけしたら伝えて欲しい。探しておられた剣の上物が見つかったので、取り寄せてあると。……ノリス=ペルノーズが申していたと。よろしく頼む」
「ノ、ノリス=ペルノーズ様!」
 それまで盤上を唸りながら見つめていたラステアが、はじかれたように顔を上げると、椅子から転げ落ちるようにして地に膝を着き頭をたれた。
「失礼いたしました。騎士団長様とは知らず、失礼な姿を晒しまして」
 ラステアの姿に唖然とした視線を向けるアスベリアの横で、ノリスは少々慌てて手を差し伸べラステアの肩を掴んだ。
「いいんだ。君たちの余暇の邪魔をしたのは私のほうなんだから、気にしないでくれ。それではよろしく頼む、アスベリア=ベルン小隊長殿。ところで君」
「はっ!」
 ラステアははじかれたように顔を上げる。
「この駒は四手後にはクイーンに獲られる。君の負けだね」
 そう言い残すと、ノリスは穏やかな日差しの下へと戻っていった。
 呆然とその後姿を見送りながら、アスベリアは聞き及んでいたノリスの逸話を疑った。
「あれが、ノリス=ペルノーズ?」
「鬼神ノリス=ペルノーズ様だ。気取ったところの無い素晴らしい方だというのは本当なんだなあ」
「あれじゃまるで、隠居した爺じゃないか」
「ば、ばか!なんて失礼な事を言うんだ!あの方は、戦場では戦いの神に愛されたと言われるほどの武勇をお持ちなんだぞ。平素の穏やかさなんてまるで別人のようになられるんだ」
「……ラステア、お前、見てきたようなことを言うんだな」
 アスベリアはラステアの心酔ぶりに苦笑した。しかし当時は、それはラステアだけではなかったようだ。あのノリス=ペルノーズに声をかけていただいた、それもアスベリアの事を知っておられたようだ、という噂はあっという間に広がり、同僚や部下からまで羨ましがられる始末だった。

「アスベリア、ペルノーズに会ったそうだな」
 城郭の内のテラスでベラス上将軍がのんびりとお茶を楽しんでいるところに、アスベリアは遭遇した。甘党のベラス上将軍の前には、蜜をふんだんにかけた焼き菓子が置かれている。ベラス上将軍はアスベリアに向かいの席を指差しながら、もう一つのカップにお茶を注ぎアスベリアの前に置いた。
「いただきます」
「どうだったね、ペルノーズは」
「……はあ」
 アスベリアの歯切れの悪い様子を、面白いものでも見るような目つきでベラス上将軍は見つめた。
「面白い男だっただろう」
「……まあ」
 何といっていいのか言葉が見つからない。
「ベラス様が探しておられた剣が見つかったので、取り寄せてあると、伝えてくれと」
「彼はなかなかの剣の目利きでね、良いものを探してくれるのだよ。しかし、彼の持つガウリアン鋼の長剣ほどの逸品はなかなかないだろうがね。もし機会があれば、一度見せてもらうといい。あれはすばらしい」
 アスベリアには天と地が逆さまになっても手に入れられないものだろう。
「剣はその持ち主の心を映すというが、それならばペルノーズの心は曇りも無く美しいということになるのかな」
 ベラス上将軍はそういいながら、お茶を一口啜った。
「どう……なんでしょうか。戦場では鬼神のような戦いぶりだと、伺っております」
「うむ、まあ、そのとおりなんだが、彼の場合はそうならざるを得ない、そんな強い意志のようなものを感じるね」
「意思、ですか」
「……優しすぎるんだよ、ペルノーズは」
 ベラス将軍の苦笑を見つめながら、アスベリアはその真意を測りかねていた。

 アスベリアが、再びノリスと再会するにはそう時間はかからなかった。ベラス上将軍の後押しと、ノリスの推薦があったらしい。アスベリアは小隊長から国王軍の参謀へと出世したのだ。
 アスベリアはしつらえられた重たい毛織のマントに――肩が凝る――と内心毒つき、正装の窮屈な襟元をいじりながら城の騎士団宿舎に足を踏み入れた。扉一つを隔てた内側は、王侯貴族の為の華美な装飾を施された豪華な空間が広がっていた。床に敷かれた毛足の長い毛氈(もうせん)が、汚れ一つ無くどこまでも伸びている。辺りは静まり返り、鳥の(さえず)る声だけがかすかに聞こえた。
「まるで、別世界だな……」
 アスベリアは思わずつぶやいた。小隊長だったつい先日までいた部屋の簡素な空間が、今はもう懐かしい。住んでいたときは、男たちの笑い声や剣の稽古に励む気合の雄たけびがうるさくて、元来静かな場所で書物を開いたりするのが好きなアスベリアは、嫌で仕方が無かったというのに。
 そんな静かな廊下の先から、突然大きな声が響き渡り、アスベリアは思わず歩みを止めた。
「アスベリア!」
 それは廊下に面した庭のほうから聞こえてくる。アスベリアはその庭の方へと歩み寄った。
「何を……」
 呟きは風の音で掻き消えた。手入れの行き届いた庭に植えられたケルカの木が、ざわざわと風に揺れている。その足元で、初夏を感じさせる眩しい日差しに目を細めながら、男が一人佇んでいた。手には小刀を持ち、もう片方には見事に咲き誇る花を握り締めていた。
 ――庭師の仕事じゃないのか?
 アスベリアの怪訝そうな表情を読み取ったのか、男がはにかみながら近づいてくる。鍛え上げられた見事な体躯を薄手の上着が包み込んでいる。額にはうっすらと汗が光っていた。
「今日は朝から暑いな。そんな正装をしていたらたまらんだろう」
 男は朗らかに笑った。
「ペルノーズ……様」
 アスベリアは頭を下げた。
「私の前では、そんな堅苦しい態度はやめてくれよ。歳も近いことだし」
 アスベリアはノリスの顔をまじまじと見た。やはり、その物腰のどこからも噂から聞き及んでいる姿など想像できなかった。ノリスはにっこりと微笑むと、手に握り締めていた花束をアスベリアに差し出す。
「私が咲かせたんだが、よかったら部屋にでも飾ってくれ」
「……はあ」
 人畜無害な微笑と花束。
 ――こいつはここで何をしてるんだ?
 アスベリアの頭の中は疑問符で溢れかえった。半ば呆然としているアスベリアにノリスは照れたようだ。庭のほうへと視線を移す。
「花を育てることが好きでね。心が和むんだ……」
「……そうなんで……、そうなのか」
 アスベリアには、受け取った花の名前すらわからない。