第五章 歪む笑顔 10

 ――オレは知っている。コドリスがオレの家族にしたことは、それが反抗的な群衆に言うことをきかせる為の上等手段だということを。暴動の引き金にならない程度の生贄はどうしても必要なんだ。
 歯を食いしばって目を閉じうつむくアスベリアの手を、ルーヤはそっと握った。
 アスベリアはその手の内から伝わる細く小さな手の感触から、幼い日のルーヤとの約束を思い出した。
 ――約束……。そうか、そうだったよな。
 他愛もない子供の頃の口約束。愛しい少女を幸せにしたいという願い。何も物理的な充足など想像もできない頃、ただ一緒にいたいというその想いのままに交わした約束。
 ――いつかルーヤと一緒になる。幸せにする。
 きっと自分は裕福になって地位を得て、ルーヤを迎えに来ると、そんな想いを抱えて村を出たのではなかったか。
 ――裏切ったのはオレだ。そしてまた、再びルーヤを傷つけてる。
 ルーヤは約束を信じ、アスベリアの帰りを待っていたのだろうか。辛い労働に耐え、必死に生活を守ろうとしていたあの頃と何も変わっていないように見える。相変わらず貧しい姿が悲しかった。

 ルーヤは自分で提案したように、夜中にパンとミルクを持ってこっそり現れた。
「このパンは、ユバラおばさんに教えてもらった作り方よ。アス、この味覚えてるでしょう?」
 それは素朴な丸パンで、中には雑穀が混じっていた。アスベリアは昔、この雑穀に混じるムツの実が好きではなかった。しかし、今こうして味わってみると、ムツの実から感じられる甘みから優しさを感じることができ胸が詰まった。
 来る日も来る日も、ルーヤは農機具小屋へと食料を運び、その度に彼女の顔色が悪くなっていくことにアスベリアは気付かずにいた。
「まだ、コドリスは村の外で野営しているのか?」
 アスベリアたちが農機具小屋に身を隠してから一週間が過ぎた。シラーグはパンをほお張りながらそう言った。
 日がな一日、何をすることもなく隠れていることに限界を感じていた。物音に敏感になり、異常なほど長い一日をただ緊張して過ごすことが辛かったのだ。それはアスベリアも同じで、やけに細くなってきた腕を無意識に摩る。
「……そのようです。ここからは野営の様子が見られないのですが、時折コドリスの兵士の姿を見ますから」
「やつらは一体何をしているんだ。このままでは、体が(なま)ってしまうぞ」
「今夜、ここを出ましょう。早くカリシアに戻って、ペルガまでコドリスが入り込んでいることを知らせなくては。我々が軍を立て直し、再度シンパへと進行するのを待ち伏せるつもりでしょう」
 シラーグは一瞬戸惑うような視線をアスベリアに向けた。
「アスベリア……、君はそれでいいのか?その……、ここは君の故郷でもあるわけだし、村人も知らないわけではあるまい。あのルーヤのこともどうするつもりだ。彼女には弟たちがいるのだろう?」
 シラーグは、ここに身を寄せルーヤからの差し入れを食べるうちに、情が沸いたのかもしらなかった。しかし、ペルガの村人はノベリアに対して許されざる大罪を犯したことに代わりがない。アスベリアたちが無事に王都カリシアに戻ることができたとして、ペルガのことをなかったものとし、二人で口をつぐんだとしても、遅かれ早かれいずれはわかることなのだ。
「私は……、ノベリア国に忠誠を誓う者です」
 アスベリアの口から出た言葉は、本人の心にうつろに響いた。
 ――忠誠とは……、笑わせる。
「ペルガの村人は従わざるを得なかったとしても、アイザナック=ラフィ少将の裏切りは万死に値する。この裏切りはその命で償っても到底(あがな)いきれるものではありませんが」
「……よいのだな」
「無論です」
「君は潔いな。潔癖なほどと言ってもいいくらいだ。私には到底真似できそうにもない。ここ二・三日、ルーヤと弟たちだけでもここから連れ出す方法がないものかと、そればかりを考えてしまったよ」
 シラーグの自嘲気味の呟きが、アスベリアを攻めていた。しかし、お互いにこの状況をどうすることもできない事実は重くのしかかる。
「情けないな、目の前のか弱きものを救う力もないというのは、こうも歯がゆいものか」
 アスベリアは黙って外の様子を伺った。その時だった。ルーヤがコルゾ芋の入った籠を重そうに抱え、コドリスの兵士の横を通り過ぎようとするのが見えた。
「ああ!」
 アスベリアが思わず上げた声に、シラーグが慌てて立ち上がる。
「どうした、アスベリア」
「……ルーヤが」
 二人は固唾をのんで外の様子を食い入るように見つめた。
 ルーヤは突然兵士に腕を掴まれ、その拍子に持っていた籠を地面に落とし芋をばら撒いてしまった。ルーヤの顔が恐怖に引きつり、兵士から逃れようと身を翻す。必死になって兵士に掴まれた腕を振りほどこうとするが、その手はびくともしない。その内、兵士はルーヤに何かを言いながらその体を引きずるようにして村はずれのほうへと連れて行ってしまった。それを見ていた村人たちがその後姿を呆然と見送る。
「何が起きたんだ?」
 シラーグの呟きをよそに、アスベリアは干草の下に隠してあった自分の剣を取り出し、小屋の外へと駆け出そうとした。
「ダメだ!アスベリア!」
 シラーグが剣を握るアスベリアの腕を掴んで引き止める。
「やめろ!今出ていったら、彼女が今まで匿ってくれていた意味がないではないか!」
「しかし、このままでは!」
「落ち着け。まだ我々を匿っていたのが知れたと判断するには早い。待つんだ」
 アスベリアは唇をかみ締め、襲い掛かる不安を押さえ込もうとした。後悔が津波のようにアスベリアの体に揺さぶりをかける。怒りとも焦りとも違う何かが、アスベリアの体を震わせた。
「アスベリア」
 シラーグが何か意を決した表情で、王の短剣を腰のベルトに下げながら口を開いた。
「やつらに少しでも隙があれば、君は逃げるんだ」
「それは……!」
「私は、最初から捨て駒なんだよ。君まで命を落とす必要はない」
 アスベリアは何も言えず、ただシラーグの手元を見つめた。
「王の為に死ぬ。そう今まで生きてきたのだ。自分の役割は心得ているつもりだ。しかし、君は私とは違う。国の為になど死んではならない。どうにかしてカリシアへ戻るんだ」