第五章 歪む笑顔 9

「……ほんの少しだけ」
 そう言うと、ルーヤは腰から下げていた皮袋に手をいれ、中からいくつかの果物を取り出した。
「いいのか?ユマやルアに食べさせるつもりだったんだろう?」
 ルーヤは首を横に振って、にっこりと微笑んだ。
「アスがいなくなって、あれから何年経ったと思ってるの?私も今年で二十一だし、ユマもルアも十七だよ。あの頃とはもう違うんだから」
「そうか、そうだよな」
 アスベリアに向けられた笑顔は、昔から変わっていない。ルーヤは早くに両親を亡くし、双子の弟二人の面倒を一人で見てきた。一人で畑を耕し、大人に混じって大人以上に働き、その日どうにか手に入れた微々たる食べ物を姉弟仲良く分け合っていた。弟思いのルーヤ。自分の食べるものよりもまずは弟たちがお腹いっぱい食べられるようにと、頑張って働いていた姿を思い出すことができた。
 ――でも、お前は今でもこんなに小さくて、こんなに痩せてるじゃないか。
 アスベリアとは五歳違いのルーヤ。しかし、目の前にいる姿は、まるで子猫のように小さく儚げな少女のようだ。身長は、アスベリアの肩にも届かない。
 渡された果物に視線を落とし、アスベリアは切なさで胸が痛んだ。そんなアスベリアの表情から察したのか、ルーヤは果物の上に自分の手を置き、輝く瞳でアスベリアの顔を覗き込む。
「コドリスが沢山お金をくれるから。もう昔みたいに食べ物を買えないということはないのよ。それに、アスのほうがお腹すいてるでしょ?」
「すまないな」
「これだけで足りる?夜中になったら、何か持ってこようか?」
 ルーヤは心配そうに外を見る。
「いや、夜になったらここを出るよ」
「それは、無理よ」
「なぜだ?」
 シラーグがため息混じりに言葉を吐いた。
「あの人たち、これからしばらく村の外で野営するって言っていたんです。しばらくはここに留まるつもりのようだったわ」
「なんて事だ」
「今が好機だと思っているのかもしれないな。ノベリアは中央が混乱している。立て直しには時間がかかるだろうから」
「王の出陣と敗走は、正直痛手だったな……」
 そう言うシラーグこそ、被害者の一人だろう。その敗退のおかげで、王の身なりをして煌びやかな短剣を腰に差し、影武者としてわざと追われなくてはならないのだ。従者はすでにアスベリア一人。護衛騎士一人を連れた王など偽者に決まっている。まるで猿回しのサルだ。シラーグはしっかりとその辺りをわきまえているようで、ここまでの道中も――もし捕まるようなことにでもなったら、お前は一人で逃げろ――と何度となくそう言っていた。そういうわけにもいくまい。
「でも、ここなら安全よ。村の人もしばらくはこないだろうし、私も何か食べる物を運んであげられるから」
「危険なことはしなくていい」
 「いいの」と、ルーヤは頭を振る。
「村の半分くらいは、コドリスに加担することに反対したのよ。でも、……仕方なくて。自分たちが属している国のことは、対岸の火事のようなものだったんだもの。税は重くなるばかりだし、生活は苦しくなっていくだけ。戦争だって、直接火の粉が飛んでこなければ、私たちには関係がないのだもの。だけど、生活が出来なければ、誰だって考えてしまうわ」
「至極正論だな」
 シラーグはしみじみとその言葉をかみ締めるように首肯した。そのとおりだと、アスベリアも思う。自分も、もしあのままここで農夫になっていたら、この痩せた土地を耕して貧困を極めていただろう。さらに追い討ちをかける重い税に苦しみ、国政に怒りを覚えていたはずだ。
 そう思うと、急に自分の家族のことが気になってくる。
「ところで、オレの親父たちは……、家族はどうしてる?」
 アスベリアのその言葉を聴くと、ルーヤの表情は不意に曇り、うつむいてしまった。
「ルーヤ?」
「……それは訊かないほうがいいわ」
「なぜ?」
 アスベリアは嫌な予感がした。その先は聞いてはいけない、そんな不安が突き上げてくる。
「アスは、何も悪くないんだもの」
 再びアスベリアの顔を見上げたルーヤの瞳には、涙が溜まっていた。言葉とは裏腹に、ルーヤの瞳はアスベリアを責めていた。
「アス……、どうして王都になんて行っちゃったの?騎士様になんて、ならなければよかったのに……」
 こらえきれなくなった涙が頬を伝い、我慢できなくなった気持ちが言葉となってあふれ出た。
「どうしてみんなと一緒にいてくれなかったの?私と一緒にいてくれるって、約束してくれたじゃない!アスが出て行かなければ、誰も……死なずに済んだんだよ!」
 最後の言葉は涙に霞み、アスベリアの手にルーヤの涙がぽたぽたと落ちた。ルーヤはアスベリアの胸に顔をうずめ、肩を震わせて泣いている。一方アスベリアは、呆然と一つの言葉を頭の中で繰り返した。
 ――死んだって……誰が、誰のことだ……。
「ルーヤ、それは……」
「ベルンさん、殺されちゃったんだよ。息子のアスが偉い騎士様だってコドリスに知られて……」
「う、うそだ」
 声が喉に張り付いて、うまく発音することが出来ない。
 アスベリアは言葉がなかった。勝手に出て行った息子の為に、父親が殺されてしまったことに。不肖の息子だったはずだ。きっと村を飛び出した自分のおかげで、村人たちから後ろ指を差されたりもしただろう。そんな自分の為に……。
「うそなんかじゃないよ!ベルンさんだけじゃない。ユバラおばさんも、ナタシヤもエルレイも、みんな殺されたの!もう、……アスの家族はここにはいないんだよ。だから……、だからね、コドリスと手を結ぶのに最初は反対していた人たちも、みんな従うしかなかったの」
 アスベリアの視界が揺らぐ。ずっと心の中に家族の面影を抱いていたわけではない。そんなきれいごとは今さら口にすることは出来ない。がむしゃらに戦場を駆け巡るうちに、両親や弟妹のことはすっかり忘れてしまっていた。そう、ルーヤとの約束も……。
 しかし、こんな形で別離が訪れるなんて想像したこともなかった。それも、もうその面影すら曖昧になっている。それなのに、血の絆はアスベリアの家族を滅ぼしてしまった。
「ごめんね、アスを責めても仕方がないのに」
 いや、今はそれでも痛みを与えて欲しいほど、アスベリアは失ったものの大きさに気がついてしまった。自分が抱いた憧れは知らないところで沢山の人を、一番自分を想ってくれていた人たちを深く傷つけ、そして失ってしまった。もう二度と、その想いを取り戻すことはできない。
「ベルンさんは、最後まで抵抗してたよ。アスが守ろうとしている国を裏切るということは、息子を裏切ることだって、そう言ってた」
「残酷なようだが、当然だっただろうな。村人を従わせるための生贄にはもってこいだ」
 シラーグはため息混じりにそう呟いた。アスベリアは両の手を強く握り締め、その喪失に耐えようとした。