第五章 歪む笑顔 8

 痩せた木の板を打ちつけただけの農機具小屋の壁の隙間から、アスベリアは外をのぞき見た。その一瞬後、アスベリアは胃の辺りをぎゅっと素手で直接掴まれたかのような衝撃で、思わずうめき声を漏らしてしまった。
「やけに外が騒がしいと思ったんだ。それで、覗いてみたらこれだ……。一体ここはどうなっているんだ」
「どうして……」
 アスベリアはそう一言発するのが精一杯だった。
 壁の隙間から見た外の風景が、未だに信じられないでいる。
「どうしてなんだ……」
 アスベリアは繰り返した。
 ――コドリスの兵士がうろついているんだ?何故、村人たちは兵士と談笑している?
「コドリスに寝返った村があったとはな」
 シラーグは小声で呟き、口元を手で覆う。
 ――コドリスに寝返っただと?
 反国家を掲げるどころか、コドリスをノベリア国内に招きいれたなんて。ペルガ村を含め、この辺りを領地とするアイザナック=ラフィ少将の顔がアスベリアの脳裏をちらついた。
 アスベリアが以前、ノリスにコドリスへの内通者がいるのではないかと話しをした時、ノリスは苦笑して首を横に振って言った。――身内を疑っていたら、結束は図れない――と。その時は、それもそうだなと自分を納得させてはいたのだが……。
「道理で裕福なわけだ。国家間の争いごとなどよりも、自分たちの生活の安定のほうが遥かに大切だ」
 思わず耳を塞ぎたくなった。
 ――やめてくれ!
 自分の両親が、兄弟が、国を、アスベリアを裏切っているなんて!
 しかし、壁の隙間から見える光景は、推測などとうに超え、揺るぎない真実をアスベリアにまざまざと突きつけていた。
「困ったことになったな」
 シラーグが頭を抱えてうずくまるのを横目でうかがう。腹も減っている。ここ何日かはまともな物を口にしていないのだ。判断は鈍り、体を動かすのも限界にきていた。
 その矢先に、思いもかけず農村にたどり着き、これこそ幸運を手にしたと思ったのだが。
「出るにも出られん。どうする?」
「……とりあえず」
 アスベリアは深呼吸をする。
「とりあえず、この干草の下に身を隠して下さい。夜まで待って、隙を見つけここを出ましょう」
 外に出られるのか、そんな隙が果たして巡ってくるのか、正直わからない。しかし、そうするしか道はないのだ。
 騒々しい物音にびくびくしながら、長く重苦しい時間を、ただただ黙りこくって耐え忍ぶしかなかった。

 外から差し込んでくる光の色が、オレンジ色になり、赤く変わる頃、突然農機具小屋の戸が音を立てて開いた。心臓の音が高鳴り、隣で潜んでいたシラーグが唾をごくりと飲み込む音が、アスベリアの耳に届いた。
「どこに置いてあるんだっけ……」
 戸口から差し込む光が、アスベリアの指先までさっと照らし出す。何も知らない無防備な気配が、ためらうことなく農機具小屋の中に入ってきた。息を殺して身を硬くするアスベリアは、入ってきた何者かの小さな足先をじっと見つめた。
 ――少女……か。
 手にオイルランプを持ち、あちらこちらを照らしながら、壁際の棚を覗き込む少女を二人は目で追った。アスベリアが――さてどうしたものか――と、考えを巡らせたその時、シラーグが突然体を起こした。
「きゃ……!」
 干草が、アスベリアの周囲に飛び散り少女の小さい悲鳴が一瞬聞こえた。
 シラーグは、少女が背を向けた一瞬を狙い、背後から抱きすくめると口を掌で覆った。
「静かにしてくれ」
 シラーグの囁きが緊張で震えている。少女の短く漏れた悲鳴が外に聞かれてはいないか、そのままの体勢でじっと伺う。アスベリアは干草から這い出して、戸口に注意を向けた。
 少女の驚きで早まった呼吸音だけが聞こえてくる。アスベリアは静かに小屋の戸をそっと閉めると、少女の手の中で揺れていたオイルランプを取る。少女の顔はシラーグの手で半分隠れていたが、大きく見開いた瞳だけは、アスベリアの姿を追っていた。
「静かにしてくれたら、何もしない」
 シラーグが少女の耳元でささやきかける。アスベリアは、自分の腰からナイフを抜くとランプの光を小さく絞った。少女が頷くのを待って、シラーグは慎重に体を離す。
「あの……」
 少女はアスベリアの腕に触れた。思わず手にしたナイフを握る手に力が入る。
「もしかして、アス……なの?」
「え?」
「アス?ベルンさんのところのアスじゃないの?」
 シラーグも、アスベリアを見る。
「どうした、知り合いなのか?」
 アスベリアは、見上げる少女の顔を覗き込んだ。この村で暮らしていた頃の記憶を辿る。
 ――アス。
 声が、記憶のどこかに残骸を残していた。そう自分を呼ぶ小さな女の子の面影が蘇る。
「……ルーヤ」
 その名を口にすると、少女の目が喜びに輝いた。
「やっぱり、アスなのね!……でも、どうしてこんなところに」
 喜びもつかの間、ルーヤの表情には困惑が広がる。農機具小屋に干草まみれで隠れていたアスベリアの姿に、当惑したようだ。それと、先ほど自分を後ろから羽交い絞めにしたシラーグの存在が気になるようだった。ルーヤはシラーグを振り返ると、一歩遠ざかるように後ずさる。
「何してるの?」
 ルーヤの困惑は最もだ。アスベリアは正直に話した。
「コドリスに追われてるんだ」
 その言葉にルーヤは表情を硬くし、ちらりと小屋の戸のほうを見る。
「なぜ、この村にコドリス軍がいるんだ」
 シラーグがルーヤに一歩近づく。ルーヤはとっさにアスベリアの腕を掴む手に力をこめると、小さな声で呟いた。
「領主様が村長と一緒に決めたことなの。お金と引き換えに村を提供するって。ここは、シンパに一番近い村でしょ?だから……」
「反国家罪で村ごと糾弾される行為だぞ」
 ルーヤの瞳に涙が盛り上がってきた。
「だって、仕方がなかったの!畑からはろくな物が採れなくなって、最近は特に土が痩せてきてるの。みんな苦しんでたわ。それなのに、科せられた税は重くなる一方。こうするしか……、他に生活する手立てがなかったんだもの」
 ぽろりと、大粒の涙がルーヤの瞳から零れ落ちた。
 ――こうするしかない……か。
 確かにそうなのかもしれない。サンダバトナ周辺の穀倉地帯とは違い、元々作物の収穫量の少ない貧しい村だ。他のところと同じように税を課せられたら、貧困はますます進む。苦渋の選択だったのかもしれない。
「おい、娘よ」
「は、はい」
「私たちは腹が減っているんだ。何か持ってはいないか?」
 ルーヤは困った顔をしてうつむいた。