第五章 歪む笑顔 7

 ――いつも雨が降ってるんだな。
 アスベリアは目を閉じて、雨音に耳を澄ます。急に心の奥底にアメジストの揺らめきが現れた。いけないと思っていても、アスベリアはその輝きに魅せられてしまう。触れてはいけないとわかっていても、揺らめき誘う過去に手を伸ばしてしまうのだった。

 シンパを巡るコドリスとの戦いは、徐々にノベリアの敗戦が濃厚になりつつあった。決定的だったのは、シンパ領のドレイクという港町での攻防戦だ。
 ドレイクはシンパの王都でもある。ここを守れなければ、もう後はない。ドレイクの北側には、ハブカンダ山という金を豊富に産出する鉱山がある。最初の戦いはその辺りで始まったのだったが、次第にノベリアは後退を余儀なくされ、ついにはシンパの王都も失おうとしていた。
 丘の上から、そして船で海側から、コドリス軍に包囲され、深手を負いたくなければ去れと圧力をかけられた。アスベリアたちは、体制を立て直すために、ここは一時退却をするべきだと判断した。
 しかし、そんな戦況を聞いて、いてもたってもいられなくなったノベリア国王ザムラス=アルデは、そんな最前線へと近衛兵を連れてのこのこと現れたのだ。王の所在を表す錦旗をこれ見よがしに掲げて。
「何をしておるのだ!敵に背中を向けるとは、ノベリアの……、余の面恥(つらはじ)ではないか!」
 この期に及んでも、まだ自分の面子に基軸を置く王の態度に、軍の士気は一気に下がってしまった。王はその気配も察することなく、激しく叱責(しっせき)すると、ノリスたちの反対を押し切り、自ら軍を率いて最前線へと、コドリスが包囲しているドレイクの王都内へと躍り出たのだ。
 これで勢いついたのはコドリスの軍だ。ザムラス国王を落とせば一気にシンパだけではなくノベリアまでも手に入る。あっという間に戦陣は崩され、国王軍はなす(すべ)もなく混乱に陥った。
「馬鹿な!シンパを明け渡しても、話し合いに持ち込むことが出来たのに!」
 そんな言葉もすでに遅い。
 混乱の中、ザムラス国王を隠し、影武者を立て、散りぢりに敗走するしか術はなくなってしまった。
「アスベリア、君はシラーグ殿をつれて、コドリスを引きつけるように逃げてくれ」
 アスベリアはその言葉に動揺した。
 ――何故、オレが……。
 激しく自尊心が傷ついた。ノリスはザムラス国王の傍らに残るのに、どうして自分が影武者を連れて逃げなくてはならない。
「これも王をお守りするためだ!わかってくれ」
 アスベリアは遣る瀬無さに唇をかんだが、断ることも許されなかった。
 ――絶対に逃げ切ってやる!カリシアに戻り、王に自分の存在を認めさせてやる!
 アスベリアを動かす原動力は、もうそれしかなかったのだ。

 アスベリアたちがコドリス軍に追われ行き着いた場所は、皮肉にもアスベリアの生まれ故郷、貧しい農村ペルガだった。そこは、ドレイクと海を挟んだ反対側に当る。アスベリアはそこまでの道のりをわざと右往左往して時間を稼ぎながら、十日間もの時間をかけて逃げ回った。村にたどり着いた頃には、自分が引き連れていた仲間の兵士を失い、シラーグと自分、二人だけになっていた。
 村を飛び出してから、気がつけば十年以上もの月日が流れていた。
 ――ここは、どこだ?
 アスベリアは始め、ここが自分の生まれ育った故郷だと気がつくことが出来なかった。なんとなく見覚えのある風景ではある。しかし、何か違和感があった。
「ノベリアの端に、こんな裕福そうな村があったとはな……」
 シラーグが何気なく口にした――裕福そうな村――、そう、アスベリアの違和感はそこにあったのだ。アスベリアの記憶にあった村とはまるで違う、裕福そうな村の風景。大半の家は大きく建て直され、広々と開いた窓からは暖かい光が漏れていた。
「一体、何があったんだ」
 ここら一帯の土地は、岩石が混じった痩せた土地だ。豊かな土壌を育む森も遥か彼方。山といえるような膨らみも見当たらない、広大に開けた場所。いくら畑を耕しても、カリシアに出荷を見込めるようなものは実らない。外からの収入源が極めて乏しい土地柄なのだ。
「立派な農村だ……」
 それを知ってか知らずか、シラーグは辺りを見回した。
「うろうろしないで下さい。いつ何処で見られているかわからないんですから」
 アスベリアはシラーグの腕をとって、村のはずれにあった農機具小屋へと連れて行った。
「一晩だけ、ここに身を隠しましょう。長居は止したほうがいい」
 何か言い知れぬ不安が、アスベリアの胸にこみ上げてくる。
 この農機具小屋は、収穫時しか使われない道具が納められていることをアスベリアは知っていた。今は雨期。種まきの時期を終えたばかりで、収穫期はしばらく後になる。そうアスベリアはふんでいた。
 アスベリアは一瞬、両親のところに匿ってもらおうかとも思ったのだが、今の自分の姿が親に誇れるものではないと思いとどまった。
 ――会いたい……。
 とは思う。状況さえ違えば、会いに行くかもしれない。しかし、村を飛び出してから十数年、一度も連絡をしなかったし、追われる立場の息子の薄汚れて情けない姿を見てほしくはない、そんな見栄のほうが少しだけ勝っていた。
「いつまで逃げ回っていればいいんだ?」
 それはアスベリアも考えていた。あれから十日。ザムラス国王はカリシアについた頃だろう。もうほとぼりが冷めた頃ではないかという油断が、アスベリアの判断を鈍らせ、生まれ故郷にたどり着いた安心感が緊張を解かせていた。
「コドリスの追っ手を振り払ったのですから、しばらくは安心でしょう。明日は早朝にここを発って、都北街道を迂回しながら南下します」
「うむ、それならば一週間もあればカリシアに帰ることが出来るな」
 しかし、アスベリアの予測はそこまでだった。それ以上の衝撃がその後やってくる事は、そのときは思いもつかなかったのだ。
「おい、おい!アスベリア!」
 二人は農機具の下に小さな隙間を見つけ、そこに潜り込むと身を寄せ合って一夜を明かした。それまでの緊張からくる疲労と、生まれ故郷に戻ってきた事への安堵感も手伝い、アスベリアはうとうとしていた。
 シラーグはそんなアスベリアを激しく揺さぶって叩き起こした。
「外の様子がなんだかおかしい!」
 アスベリアはぼんやりとした頭を振ってなんとか体を起こした。
「……な、んですって」
「見てみろ、様子がおかしい!」