第五章 歪む笑顔 12

 村はずれには、コドリス軍の天幕が張られていた。その脇には、見慣れた建物がある。アスベリアがこの村を出るまで生活していた小さな家が、何も変わらぬ姿でぽつりと建っていた。角が丸く欠け落ち大小さまざまな寄せ集めのレンガを組み合わせて作られたその家の壁は、一つ一つに見覚えがあり、軒下の煤けた形さえもその頃と変わらぬ姿をしていた。時間がそこだけ止まっているかのように、アスベリアを待っていたかのように。
 感傷に、思い出に浸りそうになる。今でも家族が待っていてくれるかのような幻影が、アスベリアの胸に迫った。家族の笑顔が、笑い声が胸に去来する。

 ――今さら、何を……。

 謝ることも、許されることももう出来ない。アスベリアは自分の心がどこか虚ろなものを抱えたことを知った。

「さっさと入れ!」
 背中を突き飛ばされるようにして押し込まれた天幕の中は、魚の油を燃やした胸の焼けるような臭いがたち込めていた。兵士たちは、むき出しの地面に三人を押し付けるようにして膝を突かせると、奥に座っていた人物に報告をしている。
「捕らえてまいりました!いかがいたしましょう?」
「女とシラーグはどこかに閉じ込めておけ。わしはアスベリア=ベルンに話しがある」
 奥に座っている人物は、少しかすれた低い声でやけに愉快そうな笑い声を立てた。シラーグとルーヤは、もはや抵抗する気もないらしくおとなしく兵士たちに両脇を抱えられて、一言も発することなく天幕から連れ出されていった。
 少しの間の沈黙。
 奥に座っていた男が、じっとアスベリアを見つめている。アスベリアは毅然とその顔を見返した。
「アスベリア=ベルン」
 男がにやりと笑う。地面に毛皮を敷き、男はその上に胡坐をかいてどっしりと腰を下ろしていた。堂々とした体躯にコドリスの鎧を着込み、地位の高さを惜しげもなくさらけ出している。顔の半分は濃いひげで覆われ表情は読み取れない。しかし、その眼はぎらぎらとした獣のような血なまぐささが、隠すこともなく惜しげもなく現れていた。まだ昼間だというのに、男の前には(さかずき)が置かれ、アスベリアの位置まで匂ってくるほど酒臭い。
「オレに何か用か」
 男は満足そうに再び唇をゆがめて笑う。
「ノベリア一の策士と名を聞くアスベリア=ベルンにお会いできて光栄だ。わしの想像していた通りの、ふてぶてしい面構えだな」
 男は杯を手に取り、それを一気にあおった。
「こちらこそ、お褒めいただき光栄だ。名将ボルシェ=サズル将軍」
「今じゃただの飲んだくれだ。戦場にしか居場所のない老いぼれだから、こんなところで油を売っておる。ベルンよ、旨い酒さえあれば男は強くなる。そう思わんか?」
 サズルは豪快に笑い、酒臭い息を吐きだした。
 ボルシェ=サズル。前コドリス国王の甥で、現コドリス国王バルナバ=ジェスタルの従兄。王家の血筋を継承し、名将と名高い歴戦の雄。その体から迸るような豪胆さ、猛々しく剽悍(ひょうかん)な井手達は、コドリスの兵士たちにとって憧れの存在といってもいい。その存在はノベリアに属するアスベリアも周知である。
 ――なるほど、一廉(ひとかど)の風格というやつか。
「オレに用があるのか、と聞いてるんだ」
 アスベリアは、サズルの威圧的な雰囲気に飲み込まれないよう、自分の腹に力を込めてそう言った。
「さっさと始末したらいい」
 杯を掲げた手の間から、射抜くような視線が飛んできた。サズルの黒々とした瞳が、きらりと光る。
「そうしてほしいか?他にもこの状況を脱する方法があるぞ」
 サズルはそういうと、杯を持った手を、天幕の出口へと向けた。アスベリはゆっくりとそちらを伺う。
「……それは、オレにこの国を裏切れという意味か」
 天幕の外に顔を向けたまま、視線だけをサズルに戻した。サズルの口元が愉悦に歪む。
「ふん、そう取るならそれもよい。こちらとしても、ぬしの能力は高く買っておるつもりだ。ハブカンダでの緒戦の戦略はぬしであろう?あのままであれば、わしの軍勢もコドリスへと押し戻されたであろうな。いつまでたっても我侭で身の程知らずな君主に振り回されているのも、そろそろつまらん頃だろう。
 ぬしが誠意さえ見せれば、その命、わしが預かってもよいぞ」
 ――誠意か……。
「忠厚を尽くすは己の想いにのみぞ」
 サズルが脇に控えていた兵士に目線で合図を送ると、兵士は立ち上がりアスベリアの背後に回った。腰に下げた短剣を抜き、アスベリアの体を拘束していた縄を切る。
「どうだ、今の地位に不服であるならこちらにこい。ぬしの能力さえあれば、こちらとしてもそれなりの地位を用意する。わしはそれくらいの懐の深さを持っておるぞ。
 だがな、その前にわしを信用させよ」
 サズルは立ち上がりアスベリアに歩み寄ると、なみなみと酒を注いだ杯を目の前に置いた。
「あの影武者と、我々の裏切り者の女を消せ。
 どうだ?ぬしの誠意の現れとしては申し分ない代価であろう。己の命を賭けるほどのものでもあるまい。承諾ならその杯を取れ」
 ――ルーヤを殺せというのか。
 確かにこの村はもうノベリアに属してはいない。この事実が知れれば、国王軍はこの村を殲滅(せんめつ)にくる。その時までもし生きていたとしても、そのときまでの命だ。ルーヤにはもう何処にも行く場所は残されてはいない。アスベリアがルーヤや弟たちを庇っても、命乞いは適わないことはアスベリア自身がよく知っていた。挙句、ルーヤはコドリスの裏切り者でもある。その行動を取らせてしまったのは、他でもないアスベリア自身なのだ。
 殺さなくては殺される。
 ――今さら、己の保身か!
 アスベリアがやらなくても、他の誰かがルーヤを殺す。
 ――それならば……、いっそ、オレの手で……。
 利己的なのはわかっている。それでも自分以外の誰かに、ルーヤの命を奪われるのは耐えられなかった。
 アスベリアは杯を取るとそれを一気に口の中へ流し込んだ。喉が焼け付くように熱くなる。胸がつまり涙が瞳に溢れ出した。それを押し戻そうとするかのように、アスベリアは杯を地面に叩きつける。
 サズルは眼を細め、満足そうに頷き手を叩いた。
「わしは歓迎するぞ、アスベリア=ベルン!」
「……まだだ。……まだ、やることがある」
 アスベリアは天幕の外を再び見つめた。この地方特有の雨期に降る激しい雨が、突然乾いた大地を水煙を上げる勢いで叩き始めた。